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第三十二話 人生いろいろレゲエ者もいろいろ その2

レゲエという音楽が日本で認知されてからというよりBobMarleyがといったほうが良いかもしれないがどうしてもあの奇抜なヘアースタイルとラスタがどうしても前面に出てレゲエがそれらの影にあった様に感じられる。そこからファッションとしても取り入れられてその中でもあのドレッドヘアーを隠す為のニット帽タムがレゲエ者のアイテムになっていたと思う。しかも定番でラスタカラーが入ってるものだ。アクセサリーしかりどれにもラスタカラー、一時期はアサヒビールでラスタビールというものまで登場していた。なぜかグリコのコーヒーゼリーのコマーシャルに2人のラスタマンが登場。何の関係があるのか、おそらくブルーマウンテンのイメージが出したかったのだろうが浅はかな考えでしたわ。まあそんなレゲエアクセサリーなどを手に入れるとなると当時は旅行会社のアイランドか海賊船、もしくはアイランドなどが商品を卸しているBarや喫茶店くらいでしか購入できなかった。なかでも海賊船というお店はラスタというよりはインドをはじめとしてアジアのものが多かったがそこで働いていたミカちゃんという娘がいてその後独立してタメルというお店をアメリカ村でオープンした。ミカちゃんは私が言う依存症でもなくレゲエ大好き女子であったけどDanceHallではまず会うことはなかったなあ。80年代の初期あたりのレゲエ者は90年にさしかかる頃にはほとんど顔を合わすことがなかった。それは宗旨の違いというかRootsPopからDanceHallに流れが変わったというべきかこれは仕方がないことで文化とはそういうものだと思います。そういう私も90年代後半にジャメイカにおいてDanceHallの行末を嘆いていたひとりである。80年代DanceHallの主流であったRub a DubStyleがほとんどMCにかわりアーティストはステージにあがってショウとして営業することが多くなったからである。文化は変化やな。あるイベントで懐かしい顔が揃った折、ミカちゃんから「癌やねん」と聞かされて全く見た目で病気と感じられなかったので「痩せれてエエやん」と 当時 肥え過ぎであった私は彼女に軽口をいったが健康そうに見えたし彼女も自然療養で治すといってたのでそんなに気にしてなかったのだがそれから2年後に亡くなられたそうだ。久しぶりに会ったあのイベントの帰り駅まで自転車で送ってくれたときには全く病気と思えないくらい元気やったのにと・・・。ただ日頃からナチュラリストだった彼女が癌に侵されたことで私の概念の自然=健康というのは崩れました。

反対に日頃から飲んだくれて「アル中か!?」と思わせる違う意味の依存症の人がいてレゲエではなくアフリカンミュージックが好きなおっさんでした。その名も「PiliPili」私の記憶では例のClubDynamiteでアフリカンミュージックをPlayしてた折に知り合ったと思います。私もアフリカには以前より興味があったので色々とアフリカへ渡航した時の話を伺いました。その当時は違う意味の依存症ということはなく「アフリカ事情通」という風にとらえておりましたがその後数年会うこともなくジャメイカより帰省してた時たまたまLablishへ遊びに行ったら再会しまして「懐かしいなあ」となり、飲んでたら急に愚痴を言いだしヘベレケ状態になってる訳です。「あのおっさん何や?!」と後輩たちに聞くと「いつもあんな感じ」というじゃああ~りませんか。この数年で何があったのかわかりませんが齢も四十過ぎ独り身で派遣社員を続けてる人でしたので重たいものをしょってるんやろなあとは察しましたが数年前まではLoveAfricanMusicの世界ではRespectされてた人やのに寂し過ぎる。「体に気つけてがんばってな」とヘベレケに言い私は別れました。もともとレゲエ者でないので接点がないから会う機会は少ないのですが私が仕事帰り同僚と一緒に大和路快速の車内で一杯やってると通路を歩いて来る覚えのあるおっさんが  「あっ! ピリピリ!!」 「おー!」

横でそれを見ていた同僚がビールを吹き出していた。そらピリピリって普通の名前ちゃうわなあ。その久しぶりの再会の数年後 彼はやはり「癌」でピリピリして亡くなった。

1980年代から二十一世紀になり当時の若かったレゲエ者もほとんどが五十を過ぎて色々な人生を歩んでることだろう、また消えてしまった者もいるんだろう。タイムマシーンっていつかできるのかな?

人生いろいろ レゲエ者もいろいろ・・・・

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第三十一話 人生いろいろレゲエ者もいろいろ その1

私がまだ学生だった頃から80年後半に至るまでのレゲエイベントでレギュラーで顔を合わせる人達がいました。現在はもうその当時とレゲエも変わってしまいその人達と会うことがなくなってしまいましたがその時代にはいつも参加されていて私もずっと気にかかっていて幾度か挨拶程度で話をしたことがありましたが記憶にそんなに残ってないのが残念です。まあこの話を読んで頂けて声をかけてもらえたら有難いです。

そんな人たちの中で特に印象にあるのが私が勝手に名前をつけてる「和歌山のドレッド」という人で腰くらいまであるロン毛で小太りの人です。おそらく泉南か和歌山からイベントには必ず顔を出しておられたと思います。ドレッドだけにRoots系のイベントにはまだ顔を出してると思いますが最近の大阪ではRootsの大きなイベントというのはほとんど無いに等しいのと80年代の曲主体のイベントも無いのでその当時のレゲエ者の行き場も無くなってしまいました。私もそうですがその当時のレゲエ者はもうすでにおじいちゃん・おばあちゃんになっておられて「もうイベントどころではない」や「人込みはしんどい」などの理由もあるんじゃあないでしょうか。まあ年には勝てませんわ。この人同様泉州・泉南・和歌山あたりのレゲエ者は昔から大阪市内に繰り出してきてる人が多くRiddimPosseの頃に岸和田から来てくれていたおそらく「中辻」やったと思うのですが ここの兄弟もよく当時顔を出してくれてました。兄のほうはいつも酔っぱらっていてどうしようもなかったですが弟は行儀よく楽しんでくれてました。岸和田弁のきつい兄のほうから一度岸和田に遊びに来てと誘いがあり当時私も営業できるところを探していたので岸和田へ行ったことがありました。昼間に訪問してたので夜のお店が開いてなかったのですが「レゲエ焼き鳥屋」やパンダのはく製がある博物館(といっても普通の家)なんかを紹介してもらいました。現在の岸和田と違いまだまだ漁師町の匂いが残った昭和の町でした。また、私がRiddimPosseでイベント出演の際休憩で店外へ出て涼んでいると1台の車が停まり「RiddimPosseはここですか?」 と尋ねてきたので「ここやで!」と答えるとすぐさま車を駐車して4~5人がやってきたそうして私の顔を見るなり「Ghettoさん?!ですか」 「そうやで」 博多から車で観に来ましたということで私も本当に驚き、なんで九州の人が?と思ったら雑誌でRiddimPosseのことが紹介されていてその際私のことも載っていたらしいのです。すごいなあと感心しながらちょっと嬉しくなって「あしたのジョー」のように「へへっへへっ」と微笑んでしまいました。   「おっつあんよ~う!!」とは言わなかったけど・・・。

またまた和歌山の二人連れの女の子。この二人はそれまで見たことなかったのですがひとりは「さっちゃん」といって和歌山市から大阪に出てきて仕事をしてるということでもうひとりは「カオルちゃん」でそれまでNYの学校で勉強していたということだった。後々このもうひとりの「カオルちゃん」は色んな意味で「くされ縁」になるのですがその時は和歌山のノリのいい娘くらいで接してました。この二人も常連さんになったころ「カオルちゃん」からNYの彼氏が来るので何日か預かってもらえないかと相談があったのです。彼も西ジャメイカMoBayの出身で話合うんじゃないかということです。私もジャメイカから帰ってきて「変しい、変しい」いや違う「恋しい恋しいジャメイカ」な気持ちいっぱいでしたのですぐにOKでした。訪日直後はさっちゃんが住んでる吹田でやっかいなっていたのですがそこからうちへ来ました。私もたくさんのジャメイカンと知り合いになりましたがなんとこの彼氏今まであった中で一番背が高い。私は背が高くないので話をする際は見上げないといけないけどそこはジャメイカの標語「NoProblem!」彼の名は 「Martine」 小学校くらいまでジャメイカで暮らしていてその後家族でブルックリンへ移住したそうだ。すぐに私たちは意気投合し、彼を私の家族にも紹介し数日間うちで過ごした。ただ、食べ物と寝間が気がかりだったがMartine自身が日本食に慣れていたのもあって大きな問題なく過ごしてくれた。そして同じアーティストということもあり画伯とも気が合った。

ジャメイカの話に花が咲いたのも言うまでもない。

第三十話 KirtisFly & SpicyM

Rough MeetsLoughのイベントが無事終えこれをステップにまた大きなイベントやクラブなんかのプロデュースをやりたいと考えていましたがなかなかそんなに世の中甘くありません。大阪だけではあかんなと考え、まずは京都でなんか営業ないかとKirtisFlyこと小島君に相談してみた。小島君とはそれまでに何度かイベントで会っていたしRoughMeetsLoughにも呼んでいたので次は京都でどうかなと打診してみると小島君は「ゲットー今度円山公園でごっついイベントをやるから出てよ」と願ったりの言葉がでてきた。円山公園というと私は兄の影響で小学生の頃フォークの大きなイベントを見にきたことがあり、それは凄いことや!やっぱり京都は円山公園やねんなあとつくづく感心し大きな期待を抱いたものだった。なぜか京都というところはレゲエ者が多いのにあまり盛り上がることなく箱が主体のこじんまりしたノリが主体で私の記憶では野外の大きなレゲエイベントというのは無い。その後小島君からの招へいの連絡はなく、会った折に尋ねると「もうちょっと待って」の答えの連発。とうとう私もどうでもエエわと思うようになった時にSpicyMこと宮井が大阪へ我々を訪ねてきた。というのもRoughMeetsLoughの楽屋で色々と京都シーンの話を聞いたり情報交換をしていて私は彼の郷里と私の父の郷里が近いこともあって親近感があり、また大阪へ遊びに来いやと伝えていたからである。彼は南紀出身で京都の大学を出て学校の先生になりたいということでした。SpicyMの際は黒塗りでイカツいイメージなんですが普段は色白の蚊トンボの様な青年でした。私はHipHopのことは詳しくないのでレゲエの話をするのですが彼もレゲエを良く知っていて話題には欠けなかったのです。画伯や大村君なども交えジャメイカの話に花が咲き聞いてるうちに彼もどんどん中毒になっていたんでしょう。おそらく京都では味わえなかったものが大阪にはあったのでしょう。その後も大阪へ来ることが頻繁になりうちや大村君のところへ泊って我々と行動をともにするようになっていきました。そうしてるうちに私はまたジャメイカへ渡っていったのである。天気も良くのんびりしていたある日「テルキ、ヒドシが来た!」とジャメイカ人が私のところへやって来た。そう「ヒドシ」という名は大村君の名前でなぜか「HIROSHI」を「ヒドシ」と呼ぶのです。ひどい事ですが何回言ってもなおらないのでそのままになっていまして、でもなんで大村君が?何も聞いてなかったしなんでやろ?と見に行くとそこに立っていたのはあの蚊トンボのSpicyMではないですか!!彼の名前も「ひろし」だったのである。聞くと「学生最後の年やしみんなの話聞いてジャメイカに行きたくなった」とのこと。大村君や画伯から情報を教えてもらってたどりついたらしい。やはり我々と濃厚接触していたので中毒になってしまいよったと私は思わず吹き出した。「よっしゃあ~これから歓迎パーティーや!宿泊は向かいのジャネルの家で泊まったらええやん」 「今晩GoGo連れて行ったるわ!」 夕方になって用意してくるわと言って宿に戻っていった彼はその夜戻っては来なかった。      

そうしてSpicyMはこの日を境に 「ヒドシ2号」になったのである。

第二十九話 ROUGH Businessman meets LOUGH Businessman

以前に少し触れていたイベント「Rough meets Lough」。そう吉本興業の老舗劇場あの「なんば花月」の取り壊し寸前の本当の意味でのファイナルイベントです。この話を狩集画伯から聞かされてヒマにしていた私はすぐさま会場の雰囲気をいかにジャメイカっぽくするかを考えてとにかく見た目で絵を描いて舞台などに飾り付けようとなんば花月の大道具作業場を開放してもらいそこでジャメイカのアーティスト Limoniousばりの絵、しかも1枚が畳一畳くらいの大きさで客席からもよく見えるように蛍光塗料を使用しブラックライトをあてました。なんとこの期間ほぼ毎日なんば花月へ行ってました。だから支配人さんやお茶子さんそして芸人さんらに親しくして頂きとても楽しい日々でした。まあ何をいっても我々が手掛けれる最大のイベントだったので本当に嬉しく楽しみな毎日でそのなかでも休憩を支配人室でさせてもらってる時に芸人さんらの楽屋話を聞けるのが一番面白かった。その頃の芸人さんですから今でいう「大御所」クラスの人達です。ちょうど吉本興業の転換期とでもいうのかNSCという養成学校の生徒と従来の師弟芸人さん達との確執、それは会社の上層部のなかでの転換でもあったみたいでした。とにかく従来の芸人さんはNSCを嫌っていて「なんやあいつらは花月にきても挨拶しよらん」とか全く同じ会社の人間でないような見方をしていた。その当時のO部長が先頭にたって改革をすすめていたようで我々がなんば花月でこんなイベントができたのもそのような転換の発想からだろうとも思えた。そんななかでこのイベントの内容というと「RoughBusiness」 これが我々レゲエアーティスト側 一方「LoughBusiness」 が吉本興業の音楽好きの芸人さん。しかもノーギャラでみなさん真剣にやってくれてました。ザぼんちのおさむさん、この人はブラックミュージック特にリズム&ブルースが好きでランキン・オサムとして出演、なんでか和歌山の星 レゲエ相撲甚句で桂文福さん まあこの人たちの凄いところは我々みたいな得体の知れんガキに腰の低い態度で接して頂いてこっちが気使うほどでした。そして、まだまだ若かった「BobMarley一代記」の河内屋菊水丸。対する我々はMr.Ghetto、ヤンキー&ミラー、京都からHipHopのKirtisFly&SpicyM、I&Iのミカちゃん、東京からのゲスト Sistren HoneyB、セレクター陣にKarishu、レゲエ和尚ことKodo Ejima、東京からのShabby。

「LoughBusinessMan」サイドはいつもの寄席で演る姿でなく真剣に歌を披露していてある意味凄いなあと感心しましたが さすがにランキン・オサムさんは一発目に例の「オサムちゃんで~す!」をやって頂けて思わず「BxxboCloth!」 その後はダンディに気分良く歌っておられました。先述してましたが会場は舞台と同じツラでお客さんも演者の前にきて楽しんで踊ってました。こんな中の状況を劇場の入り口に設置したスピーカーから外の商店街に流していたのですがいかんせんあの頃の千日前あたりは若い人達が行き来するようなとこでもなくおっちゃんおばちゃんが「うるさいな、何しとんねん」くらいで通り過ぎていくのみであったが会場にはレゲエ者で一杯で大成功であったと思う。やはり吉本興業の全面バックアップもあり、TVでのイベント紹介や私と狩集画伯でダウンタウンのラジオ番組出演での宣伝などさせてもらいレゲエダンスホールを世に広めれたと思います。勿論、例の読売新聞紙上での宣伝記事もちゃんと載せて頂きました。そんな沸きあがった会場に「なんば花月最後のイベント」を見に吉本興業の林会長と香川登志夫先生が来られていて数秒で会場を後にして林会長はステッキを振り回しながら怒ってはったとか・・・。

この二人にとっては  「がび~ん」 ですわ。

第二十八話 ♬四角四面の枠の中、土手の柳は風任せ、可愛いあの娘は貴方の口任せ♪


DeeJayとは職業なのか!?現在レゲエDeeJayとしてご飯が食べれる人はごくごく僅かだと私は認識している。しかもその人達もアメリカやジャメイカのDeeJayのように豪勢な暮らしをしているわけでもない。そんな現在から三十数年前のまだまだ世間から認知されてなかったレゲエDeeJayですから全くをもって食べることなんてできなかったのである。「(職業)何してる?」 と尋ねられて 「レゲエのDeeJay」と答えると必ずと言っていいほど「キュウっ キュウってスクラッチするやつか?」や「ラジオのか」とかえってくる。本業としていても食べる為に他業で働かざるを得ない職業?でした。多分にもれず私も勿論、食べていけないひとりでしたがDeeJayを全うしたくDeeJay一本で頑張った時期がございまして といっても収入がないのでそれを補うためにパチンコをして何とか現金を得てました。その頃のパチンコは今と違ってまだ電気役物が主流でフィーバー機がでて一世風靡したが規制に引っかかって落ち目になろうとしている時期だった。私はキングスターという機種が好きで打ってました。世間からみればいわゆる「遠山の金さん」ですわ。すなわち「遊び人」週末は夜な夜なDeeJayに出かけ日頃はパチンコ屋。そんなDeeJay稼業を送っていた頃ですわ ひとりの若人がマイク握らせてと来たのは。当時先述してますがよくある事で我々も断る理由もないし、演者が増えればとマイクを渡しました。

「ジャンジャンバリバリ、ジャンジャンバリバリ、パチンコマーン」 Gun Shot! 傍らにいた私はすぐマイクを取り 「Ease Off Selector!!」もうハマりにハマりました。私もその場で日頃のキングスターへのボヤキをからめCome again! 会場もMash Up! この時期よりパチンコ業界も20兆円産業として巨大産業になりだしていく頃で。このリリックスはその時期のリアリティそのものではなかったでしょうか。名前を「BoogieMan」とあまりレゲエを連想するDeeJayネームではないなあと思いましたがとにかく第一印象は凄いインパクトがあり、我々一同感心し、イベントあれば呼ぶからと連絡先を聞きました。まだまだ若くリリックスもまだそんなに無かったけどこの子は使えると本当に思いもっとリリックスつくっときと言って別れました。しかし、この時「このリリックスは絶対うける!」 と私は時代背景も考え得心したのは覚えてます。そしてその後も何回かBoogieman を呼んでイベントに参加しました。私がジャメイカへ行って数年経った頃 とある田舎の山奥で過ごしていたら何とBoogiemanと私のファンという同級生と訪ねてきてくれたんですね。そうして三人でLuceaのシークレットビーチに行って誰にも邪魔されずに近況や思い出話をしたものでした。そしてメジャーデビューを果たし後、結婚をしてその奥さんと友達が訪ねてくれたのであった。(本人は多忙で来れなかった)そのときBoogieManのおみやげのプレーステーションと「鉄拳」は近所の子供たちも含めハマりにハマってました。子供の学校で「HADO-KEN」や「KU~MA」とさけぶのが流行りました。どこの子供も同じですわ。その時点ではおそらく未発売だったとおもいます、さすがにメジャーになるとちゃうなあと感心したものでした。やっぱりあのリリックスは売れたんやなあと想いカリブ海に沈む夕日を見送りながらあのキングスターの事を思い出してまだあるんやったら打ってみたいなーと。

「仕事しろ!仕事しろ!女房子供がないてるぜ!」 未婚でしたがこの歌詞は耳に痛かった~

第二十七話 Where dem gone !?

大阪で当時レゲエシンガーといえば 「Kaja」がダントツであったが松竹芸能所属でメジャーでしたから我々のシーンには参加することはなかったのですがDanceHallStyleのなかでは私が知る限り例のあんまのミラーマンの相方である「ヤンキーマン」 と ルーツロッカーズのボーカル 「ドラゴン ターボー」 のふたりくらいでなんとも寂しいかぎりであったが我々のRub A Dubには欠かせない花だったことは確かであった。しかもこの二人は我々と違って今でいうイケメン風でしたからそういう意味でも「花」でした。80年代末期からドラゴンターボーもピンで歌うようになりスプトニックバンドと組んだりBoogieManとRub a Dubを演ったりしていた。そんな二人は90年代中頃に消えてしまうのである。以前にも先述したがヤンキーマンは病魔に侵されて五十年足らずの一生を終えてしまいました。そしてもうひとりのターボーも不可思議で失踪なのか拉致なのか行方が不明になっていたのである。この時期私は在ジャメイカであったので詳しくは知らないのであるが廻りの人間の話によるとミナミでエンジンもかかったままの車が放置され本人はいなくなったとか、詳細はわからないということでその話も時とともに風化してしまった。ようわからん話ですわ。また、RiddimPosseに出入りしていた自称DeeJay JoJo もう三十年以上会ってないし噂すら聞かない。ひところ四ツ橋にあった「Life」という店で演っていたがその後消息不明である。まあ若い頃と違って家族もあったりしてもうレゲエなんかやってられんということも無きにしも非ずやと思います。偶然というか亡くなったヤンキーマンはともかく連絡先不明者は皆ジャメイカへは行ってなくそこからもなんとなくレゲエシーンから消えたのがわかるような気がする。やっぱりジャメイカから受けるパワーというか魅力は本当に凄く依存症になるのも当たり前やなとつくずく思うのである。それゆえに何十年もレゲエシーンにとどまっていけるんじゃあなかろうか。

大阪レゲエ者に一言 「どっか飛ぶ時は連絡先だけでも教えといてね」

第二十六話 ORANG OFFICE

第一話から読んでる人には第十九話で 「えっ!?」 と疑問に思われた方もいるんじゃあないでしょうか。それはあの画伯の事務所の名前です。そうなんです事務所の名前が変わっていたんですね。なんで名前を変えたのかは不明なんですが新ネームはうつろにオランウータンからきてるかなんかやったと記憶してますがこれも定かではないです。まあこの事務所には「LJP事件」をはじめいろいろと思い出がありましてたまたま大村君の友人であった画伯と知り合いになりそれからミナミへ行った際は必ずといっていいほど立ち寄ってました。特に以前にも記述してましたがジャメイカから帰ってきた頃の私にはオアシスのような存在でした。この事務所の店子はほとんどが画伯の友人でしかもデザイナーさんばっかりでみんなで飲みに行ったりして仲良くしてもらいました。ただ、他の人たちは会社組織として運営されてたのですが画伯はポリシーが強く独自で儲からないことをやってるように見えました。また、管理人のおばちゃんの容姿がまた濃い!牛乳瓶の底みたいな眼鏡をかけいつも前掛けして地下で住んでましたわ。暗いとこでしたけどよう生きてるなあとまで思ったほどです。そんなことでいわゆる「マタ連れ」的に知り合った画伯とは親密になっていき私の専属セレクターにもなってもらい各イベントに一緒に出るようになっていきました。そんな時に画伯は吉本興業の仕事を受け当時高校生に人気のあった「二丁目劇場」の小道具やトミーズなど芸人さんのイベントポスター制作等々それまでヒマにしていた画伯が多忙になり吉本を中心として人脈も広がっていき「その世界」の話なんかを聞かされてるうちに「ウダツの上がらん」かった画伯もようやく日の目をみるんやなと私はつくづく感じたものでした。そんなある日、吉本は芸人グッズを販売するというのでその打ち合わせに業者が事務所に訪ねてくるというのです、その頃の私はほとんど毎日事務所でくすぶっていたのでその場にいたんですがコンコンとノックをしていやにテンションの高い業者さんが入ってきました。そうして画伯と名刺交換そして傍らにいた私も紹介にあずかり画伯に作ってもらった名刺を業者さんと交換。「なんや凄いことになっとるなあ」と思いながらふたりの打ち合わせを見聞きしてました。そんな時です、その業者さんが画伯に発した言葉 「先生!!」 *** GUN SHOT!! 傍らにいた私は本当に死にそうでした。その後もずっと業者さんは画伯に先生と呼び続け私は急性腸ねん転になる寸前で業者さんは「お邪魔しました!」と帰っていきました。そうなんです、画伯はこの時すでに「先生」になっていたのです。吉本といっても一部上場企業です、そこへ出入りしてるデザイナーですから「当たり前」かもわかりません。そうしてこの頃私は画伯に吉本がらみでCLUBかイベントやろうと懇願するようになり、画伯もそれにうごいてくれてとってきたのがあの「ROUGH meets LOUGH」なんです。私だけが感じてるのかもしれませんがこのイベントは本当に凄かったと思います、とにかくあの歴史ある「なんば花月」のファイナルイベント(吉本興業主催ではないがこの後解体)で我々の意見100%が叶ったイベントでした。「DeeJay VS 芸人」 しかも歴史ある劇場を舞台から客席をワンフロアにしたんです。お客さんにも踊ったりしてもらうために。とにかくSHOWではなくCLUBっぽくしたんです。まあこの話も別記したいと考えてますのでまたその機会に読んでみて下さい。ともあれこの事務所での思い出はいろいろありました。あ、そうそう事務所の新ネームの意味はいつ尋ねてもだれもおらん! からかも  知らんけど

第二十五話 レゲエバーからクラブへ

第一話で記述したRiddimPosseも営業数年でオーナーのアメリカ移住で閉店になってしまい大阪でリアルジャメイカを体験できる場所がなくなってしまうのと同時期に世の中のトレンドが変化しだしてきた。というのはそれまでのDISCOの廃退で若者の集まるところがなくそれを受けたかたちでCLUBというのが台頭し始めた。まあその流れはほとんど欧米からの流行りを日本でやったということなんですがDISCOと異なるのは日替わりでPlayする音楽が変わるのと奇抜な内装が特徴だったと思います。わたしがNYで観たCLUBは教会や銀行の金庫室跡などで当時 NYで「ヤッピー」という若い金持ち(金融関係やアーティスト・弁護士等)がこぞって会員制でパーティーをやっていた記憶がある。大阪でも「キノッピー」や「トクッピー」 というのがおったが全く関係はない。まあそんなCLUBが大阪福島にできたのである 「CLUB DYNAMITE」ここはキャパも広く忠実に欧米のスタイルを受けたような箱であった。そして当時のトレンドでワールドミュージックというかたちで世界の音楽を日替わりでセレクターをいれてPlayしていた。オープン当初、私は日本にいなかったので状況は知りませんが帰ってきてビックリしたのは覚えてます。そしてメインでPlayされてたのがレゲエDanceHallミュージックというのが本当にびっくりです。はたまたジャメイカからのアーティストをいれてのイベントという風にエライ盛り上がり様に目がテンになってしまいました。「ここ数年でこんなに変わるのか!?」 もう言葉もなかったです。反対に件のRiddimPosse閉店後そのスタイルを継いだのは梅田の「Labrish」や四ツ橋の「St.Ann」ではないでしょうか。東区のどこにあるかわからないようなところじゃなくフロントの阪急梅田駅高架下、四ツ橋筋沿いの地下というようにレゲエがポピュラーになってきたのが見えました。今思えばやはり日本はバブルやったんでしょう。Dynamiteの内装はおそらく工場をコンセプトにしたような感じで「鉄」のイメージを私には感じられた。とにかく週末は客がいっぱいで入りきれない人もでて凄かったのは今でも覚えているし、もうその時にはレゲエDanceHallミュージックが若者のトレンドになっていたんじゃないでしょうか。勿論それに付随するHipHopミュージックというのもあるんでしょうがファッションでも顕著にそれが表れてました。こうして箱が増えていくと同時にいろんな演者も増えていたのも事実で私の全く知らない人がDeeJayでポスターなんかにクレジットされてるのを見てると本当に私は「浦島太郎」になった気分でした。ジャメイカウエストモアランドから煙タップリの玉手箱をもって帰ってくるべきでした・・・・。

第二十四話 Love Jamaica People

LJPはジャメイカの政党JLPとは全く関係ございません。LJPは80年代に渡ジャメイカから帰ってきて依存症になった人間の集団みたいなものです。といっても大阪のレゲエ者でも知ってる人も少ないしほとんど知らないと思いますがこの集団の中にも私の救世主Junも参加しておりました。実はこの集団は即席でつくった経緯がありまして、それは第十二話であった事件で天下の読売新聞に苦情を伝えるにあたって単なる個人でするには迫力にかけるし軽く見られると考えてその当時の依存症患者に参加を呼びかけてできたものだったのです。当初は真剣にジャメイカで学校創設や慈善事業などを計画してましたがその後主要メンバーがバラバラになり自然消滅してしまいました。そんな中、あのJunは古着を集めてゲットーの人たちに贈るという運動をしてまして「さすがやなあ」と私も関心してました。ただこの古着を以前来日してRiddimPosseにも来ていたSugarMinottのYouthPromotionへ送っていたんですが後に私がジャメイカでS.Minottに出会ってその話が出た時に彼はもう送ってくるなといってたので恐らく彼らにとって有難迷惑だったようです。やはり個人で送ると税関の問題などいらんお金もかかるし私はどんな衣服を送っていたかわかりませんが彼らの欲するものではなかったのでしょう。実際ジャメイカ人はプライド高いしお洒落ときているから同じお金を使うなら自分の気に入った新品を買うでしょう。でも、Junのこの気持ちだけでも評価してあげないと彼女は浮かばれないでしょう。あっ!まだ死んでなかったわ!という私はゲットー出身のGo-Go Girlにお金を費やしてました。これは全く慈善事業じゃあないですわ。とにかくLJPはジャメイカに行ってそこでジャメイカンから受けた親切やジャメイカの自然などに感銘をうけた人達だったのです。それだけジャメイカには魅力があったのです。実際私はジャメイカでアメリカやヨーロッパのLJPとたくさん遭遇いたしました。

第二十三話 エピソード with Fxxxin Jun

大阪レゲエ百物語のなかでジャメイカでの話を書くことは基本したくないのですが 第二十一話でJunとのエピソードを書いてしまいましたのでその後のエピソードを続いて書いていきます。救世主Junとの旅はようやく目的地のジャメイカへと。前年に体験している私にはもうあの不安感や緊張感はほとんど無く、「勝手知ったる~」 で税関でビデオカメラにイチャモンをつけられて保証金を支払わされたくらいですんなりとGone a Negril ! この旅の条件としてJunに男を紹介することを最後に滞在期間中お互い干渉せず旅を満喫しようということだったから私はとりあえずマッキーを紹介することにしていた。というのも前回マッキーに日本人の女のコを紹介してくれと頼まれていたのもあったので軽く考えていた。しかし、Junは 「おっさんはイヤや」ということで別行動になるのだ。友達は彼女を一人にすることは危険やし心配だと言ったが私は彼女が2年ほどNYで語学留学もしていたのでそんな心配はないやろとタカをくくっていました。そうこうするうち友達たちから「Junはピンプと一緒におるから連れ返せ」と言われたのでJunと会ってそのことを伝えたのだが彼女は 「あいつムッチャええやつやねん」と言って聞く耳をもちませんでした。私もひとの恋路を邪魔するのもなんやしそのまま戻りました。それから数日後 「ゲットー君」と言って私のところにやってきました。見ると顔から鼻血をだしたJunが立ってるじゃあ あ~りませんか!!「なんやお前 どうしてん!?」 「クリスにどつかれてん!助けて」 「そやから言うたやろ!もう戻らんとここにおれ」 そうして友達達とクリスを探し出し 「もう二度とJunに付きまとうな!次は警察呼ぶぞ!」と 警告し、Junには絶対あいつとは会ったらアカンといってそれからは一緒にレゲエのBigShowに出かけたりしていたのだが ある日また友達がとんでやってきてJunがまたクリスと一緒になってると。会うひと会う人に 「お前の友達はアホや!早く連れ戻せ!」 と言われるのだが私もあきれてもうこうなったら放っておこうと決心した。ちょうどクリスマスから年末の楽しい時期でこの時期をわざわざ選んでここへ来ているのに何やねんと怒りが込み上げてきた。そうして年末の年末 大晦日にクリスは警察に逮捕されその年に新築された「JAMAICA JAMAICA」と呼ばれていたNegril署の留置所に放りこまれたのである。というのもJun達が宿泊していたゲストハウスでJunは暴行されたあげくに金までとられて管理人が警察へ通報して逮捕となったらしい。1988年 元旦 ボコボコの顔をしたJunが 「ゲットーく~ん」 と私のところへやって来た。ジャメイカの噂は早い!すでに私はその事を皆から聞いて知っていた。「もうお前に何を言うても一緒やろ、ほんでどうすんねん?」 「警察に説明して欲しいねん、私の話が通じへんねん一緒に警察行って」 元旦早々オレは警察か!?というても救世主Junのおかげでここにおるわけやからと思い「JAMAICA JAMAICA」へと向かった。インスペクターのいうのには彼女は日本語で話すから理解できないと。「エッ!語学留学しとったんちゃうんか?なんでまた?」 ご存じのとおり私も英語が達者ではないのだがそれなりに事情を説明して当分の間クリスをこのホテルで留置しといてくれと頼んで帰った。警察のみんなは「このチャイニマンはBadや」と大笑い!私の1988年はこうして始まったのである。 その後、釈放されたクリスとJunが一緒にキングストンへ行ったと聞いた私は 「どFxxxin Jun!!」 と Negrilのセヴンマイルビーチで青い海に向かって叫んだ!!