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第三話 80‘s大阪レゲエの発信地

「アイランド」と聞けばレゲエ者でなくても旅行代理店と知ってるあのアイランド大阪がプロモートしたレゲエパーティーは当時の大阪レゲエシーンそのものであった位大阪レゲエの中心だったのだ。もともとはインドやバリ等への格安チケット販売が売りの「旅行屋さん」だったと思うのだが「アイランド大阪」のスペースマン中野と云うRoots好きの社長がレゲエパーティをミナミのディスコでキープしてから大阪でシーンができだしたのである。その後キープされるパーティをの規模も大きくなってきて、最終的に「琵琶湖ジャミング」と云う日本で初めてサンスプラッシュなみのコンサートを琵琶湖畔で開催したのだった。しかも天下のNHKや滋賀県教育委員会等も協賛し、放映までされた。かく云う私はアイランドに出入りするレゲエ者の一人でこのイベントのスタッフとしてセキュリティーと称してステージ前のパロってあばれている輩をしばきたおしておりました。しかし、アイランドはパーティーやショウを多々キープしたが箱をつくらなかった事が後にシーンの中で知名度が旅行屋さんとしてしか残らなかった原因だったと思う。このレゲエ発信地だったアイランドの当時のスタッフ(レゲエ部門)S (頭文字はSやが性根はMやな)を筆頭に豊嶋さん(女性)、金森さん(女性)らがイベントを支えていた。旅行業としても本当にアットホームな接客対応で根強いリピーターをたくさん抱えていたと覚えている。そのとりまきで大阪のレゲエ者がここへ出入りし始め、現在では有名な「レゲエご拝聴ツアー」が企画されたのであった。その当時ジャマイカ旅行に行く日本人と云うのはごく少数のミュージシャンか商社の人間くらいであった。その時代 何とか「レゲエの本場へ」と云う全国のレゲエ者がサンスプラッシュを目指して “ Gone Jamaica“したのだった。そこで若井ぼん(漫才師)さんがそのステージで「元祖レゲエ河内音頭」をバンドのZoundsystem と演ったのだ。まぁこの時の客のリアクション!!見てみたかったなぁ恐らくぼんさんがメインステージに出てきて「え~さぁ~ては一座のぉ~ 」と歌った時、会場でどれだけの男がBad Word (プ○○ーホール、ボンボク○○○ etc ) をつぶやいたでしょう。興奮のるつぼです。その後ランキンタクシー等をサンスプラッシュに送り、日本では初めてのレゲエビックコンサート「琵琶湖ジャミング」をプロデュースしたりと大阪は元より全国のレゲエ発信地であった。

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第ニ話 レゲエパーティ 

ジャメイカで呼ぶ “Party Set” はショボいセットと形容されるが1980年代前期の大阪レゲエシーンではまさに”Party Set”がようやくキープできるか、できないか位のレゲエダンスホールの知名度でそれはレゲエラヴァにとってはとてもアーティカルなものだった。今時のサウンドBwoyでは全く知らない存在でもある私も当時は稼ぎの大半をつぎこんでいたほどキープするのに苦労したレゲエパーティーのプロモートであった。そんな中で大阪で最大にして最後のパーティーレゲエが北摂はサルで有名な箕面でキープされた。え?「なんで最後やのん?」てか!!その後のレゲエパーティーはParty Reggae やってん。Sweee~~~~~n!!!その頃はサーファー流行りで特にサーファーお奨めのお洒落でキャパの大きな店であった「ピレーネ」が箱。プロモートしていたのは知ってる人も多いと思うが旅行代理店のアイランド。この旅行屋が80年代大阪レゲエシーンに残した足跡は大きいと思うが詳しくは後々の話としてこのピレーネでキープしたパーティーは今から思えば誠にRich(濃い)なフュ-チャリングで「つかみ」がレゲエ漫才でそれだけでも「濃い~」と聞こえそうやが、それが全くレゲエが出てこんNSC第2期生[ Love & Peace ]というコンビが演った。ネタはお世辞にもエエものではなかったと想うが、この2人は後に板尾と云う漫才師に、もう1人はSweet Jamaica のCrew になっていった。「つかみ」がこんなんで次は当時本格レゲエバンドと呼ばれていた I & I (アヤナイ)が京都から現在でもクラブシーンで活躍してるカーティスフライこと小島クンの妹ミカちゃんがボーカルをしてレゲエパーティーに花を添えた。I & I は、全国的にも営業に出てた京都のレゲエシーンの代表で私もファンの1人であったのです。因みに大阪ではダントツのRoots Rockers やったです。なにせ「レゲエパーティー」だったから、次はいよいよ皿まわし。それで一番手は元祖Nasty Mouth 「ミラーマン」この時初めて会った私の印象は「やばい」の一言であったのはミラーマンが掛けていた「あんま屋の黒メガネ」のせいだったことがこれから半年後にわかったのであるがなんせ無口な上、回すお皿がまたDubばっかり、このときはまだ例の「皮かむり」はできてなかったと記憶している。「危ないヤッちゃ」と感じつつも私は自分の順番を待っていた。当時のレゲエパーティーではとにかく私みたいなRub a Dub SoundBwoyはしんどかった。2人くらいDub まわしが続くと倒れそうになりそうなエグイものだった。ようやく回ってきた順番に私はミナミのレゲエレコード店「ライオン(LION MUZIC DEN)」や「LPコーナー」で見つけた12インチのDee Jayもんをかけまくった。—これがダンスホールスタイルや—まだしょうもないリリックスしかなかったがとにかくレゲエはダンスホールスタイルやでと云う気持ちいっぱいに演った。そしてトリが当時雑誌やテレビにひっぱりだこだった京都の獅子舞ことGold Teat KODO-EZIMAがまたまたDub まわし。-**-**- しかもシンセサイザーのピューンピューンと云う脳ミソにささるような音とエコーで私はフラフラだった。このKODO-EZIMAは京都いや関西のレゲエシーンの代表みたいな人で当時あの「フォーカス」にとりあげられた程、全国的なレゲエ者であった。そんなこんなで無事警察の手入れもなくクリスマスシーズンの箕面の夜はふけたのであった。とにかく当時のレゲエパーティーではこれが本格的なものであったのは間違いなく、これ以後あのリディムポスィがオ-プンし、ダンスホールの歴史が大阪(関西)で始まったのであった。

第一話 High School …..”Rydim Posse”

「リディムポッシー」当時の大阪レゲエシーンではそう読んでたが「リディムプッシーのゲットーさん」と呼ばれる事もあった。そのRydim Posseで「懐かしいなぁ」と感じるあなたは大阪SoundBoy 第一期生と呼べるでしょう。と云うのもこのBarは当時の日本の中で一番ジャメイカレゲエをリアルに表現していた唯一の店だったからである。またこの店のお客さんだった人達が今日の大阪レゲエの重鎮的立場にあるのも事実だ。そのリディム ポスィの始まりとともに大阪レゲエシーンに「Rub a Dub Style」が生まれるのである。場所はキタやミナミではなく「東区」。オーナーであったのは現在NJ在住の旧姓O嬢←この店のプロデューサーでも彼氏でもあった(後に結婚)S氏が、当時日本にはなかったリアルジャメイカンレゲエの店をやってみたいとO嬢の実家の喫茶店を改造し始めた店が当時大阪(関西)レゲエ者(=レゲェラヴァ)のあこがれだったダンスホ-ルレゲエバ-だったのである。この「箱」ができたことでそれまでパーティーアーティストであった私は本当に嬉しかったのを今でもはっきり覚えている。入り口には昭和50年代の喫茶店を代表する様なつくりであったが、本場ジャメイカのバ-を思わせる様なデコレ-トをし、竹をいっぱい使った内装、ガラスドアを開けた瞬間ジャメイカに来た様にさせてくれた「箱」だった。この「箱」にはいろんなエピソードがあるので一話一話として後々お話するとして、リディムポスィが出来て以来大阪レゲエ者がここに集まったのは云うまでもないが現在のシ-ンから比べるとまったくショボイものであった。エントランスのガラスドアを開けるとすぐにカウンタ-があり、3m程はいると少し広くなったところがこの店のフロアだ。その正面には、金網で囲まれたDee-Jay ブ-ス。その時まで大阪レゲエDanceはイベントとしてDISCOや喫茶店でパーティー風なものでしかなかったがこのリディムポスィによって毎晩リアルジャメイカンレゲエを聞けて、週末にはRub a Dubスタイルを勉強出来る様になった。私がそもそもこの話のタイトルでHigh Schoolと題したのもこの「箱」によって今までのレゲエ好きの人達に新たにリアルジャメイカミュージックを知らしめ、レゲエ者として育てあげた場所と思っているからである。90年代大阪でレゲエ関連の仕事をした人のほとんどはこのスク-ルのユ-ス(客)であったことは前述したとおりだ。とにかくレゲエやジャメイカの情報やレコ-ドが手にはいらないからこの店に来るか直でジャメイカに飛ぶしか方法がなかったのであった。又、ここのユ-スの全員がその後ジャメイカへ渡って行ったのも真実だ。そして「巣立っていった」と私は表現したい。

「大阪(関西)のレゲエはHOTだ」

「大阪(関西)のレゲエはHOTだ」とレゲエシーンが始まって以来、沢山のレゲエアーティストが大阪で営業して口を揃えていう言葉だ。この物語はその「大阪レゲエシ-ン」それも「ダンスホールスタイル」の世界が生まれたとき、最も熱かった当時のエピソードを私こと「オリジナルジャパメイカン」Mr.Yenがジャメイカはハノヴァの山中にこもること数年、現在のサウンドボーイやレゲエラヴァに語ってみようと書きしたためた百話である。何の情報も箱(場所)すらなかった当時、レゲエダンスホールスタイルをキープすることは難しかった。そんな中で少数のレゲエラヴァが集まりレゲエパ-ティやコンサートをプロモ-トしつつ大阪レゲエパワーをはぐくんできた。そしてクラブと云う箱ができレゲエダンスホールスタイルに火が付くことになりレゲエクラブが軒並み増えていくまでの20世紀最後の20年間の大阪若者時代史と云っても過言ではないと思う。一話一話、読んで貰って「濃いなぁー」「大阪やなぁー」と感じてくれればIRIE です。

2002年9月15日 DADDY-T