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「大阪(関西)のレゲエはHOTだ」

「大阪(関西)のレゲエはHOTだ」とレゲエシーンが始まって以来、沢山のレゲエアーティストが大阪で営業して口を揃えていう言葉だ。この物語はその「大阪レゲエシ-ン」それも「ダンスホールスタイル」の世界が生まれたとき、最も熱かった当時のエピソードを私こと「オリジナルジャパメイカン」Mr.Yenがジャメイカはハノヴァの山中にこもること数年、現在のサウンドボーイやレゲエラヴァに語ってみようと書きしたためた百話である。何の情報も箱(場所)すらなかった当時、レゲエダンスホールスタイルをキープすることは難しかった。そんな中で少数のレゲエラヴァが集まりレゲエパ-ティやコンサートをプロモ-トしつつ大阪レゲエパワーをはぐくんできた。そしてクラブと云う箱ができレゲエダンスホールスタイルに火が付くことになりレゲエクラブが軒並み増えていくまでの20世紀最後の20年間の大阪若者時代史と云っても過言ではないと思う。一話一話、読んで貰って「濃いなぁー」「大阪やなぁー」と感じてくれればIRIE です。

2002年9月15日 DADDY-T

第四十二話 Daddy-T還暦パーティーを終えて

7月9日 梅田Noonにおいて私の還暦祝いを盛大に開催して頂き誠に有難うございました。

もともと私の計画ではうちうちでおいしい料理を囲んでカラオケ(最終はrub a dubになる)や昔話に花を咲かせるくらいで考えていたのですが皆からやっぱりやるならイベントにしたいという意向が強かったので祝ってもらえる私は皆に一切を任せました。

これだけ沢山の人達がわざわざ遠方からも来て祝って頂けるとは思ってもいませんでしたので本当に感無量で言葉もでないくらいでした。(マイク持ったらようしゃべってたけど)

レゲエにはまって40年あまり色んなステージショウやアーティストを観て感動しましたがこんなに感動したことは無かったです、凄かったです。恐らくあの場にいた人達皆がそう思ったに違いないと思います。

まずは開催に至って動いてくれたFambilyのみんな

Karisyu、Mi-I、Grand有馬、ChuckySmart、JAH WORKS OGIDO、OGA、さっくん、Ace、正一(6票)、はんなちゃん、ドーラ、Emperor、DownTownかつ、等々

名前を落としてる人がいたらすみません。

そして遠い所からこぞってパフォームしてくれたアーティスト

BoogieMan、NanjaMan、MillerMan、BunBun、Akee&SoltFish、

Original Kose、Masasaburro、TopBodyz Junko、RedMonkey、DickMan、

そして忙しいところ来てくれたRottenRanks、とっちゃん、MURASAKI、

そして大勢の祝ってくれたお客様方々、プレゼントまで頂き本当に有難うございました。

簡単ですがこれを私からの御礼の言葉として締めくくりたいと思います。

Give thanks Big people !

Teruki

第四十一話 伝説のSoundユニットTravelFox

TravelFoxと聞いてピンとくる人がどれだけいてるだろう?知っていてもレコードマニアでレーベルの名前では?という人もいるかもしれない。それだけ知名度は低いんじゃないかな。まず、TravelFoxというのは靴のブランドで現在ではなぜか台湾でしか見かけない品物だ。7,8年前に台北へ行った時に看板を見つけすぐにシューズショップに駆け込んで探してみたが80年代のあのお洒落なデザインのものが無い、入学したての中学生が履くようなものしか無く数件回ってみたが見つからなかった。

87,8年にあのブームをおこしたデザインが跡形もなく消えてしまっているのである。

そうその名前を冠にしたSoundユニットが当時大阪に存在してたのである。

DeeJay:Mr.Ghetto, Spicy-M,

Horn:Milk-Man, Kanpei,

Selecter : Karishu

これが主なメンバーでBoogie-ManやRottenRanks, YanKee&Mirrorなども加わった。

もうやってることはほとんどジャメイカのSoundSystemのまねごとで当時それを知る人も無く反対に「凄い!」「かっこエエ」の声が大半であった。

Milk-Manなんかは当時KillamanjaroのHorns-Manばりのトランペット奏者でAnswerなどのオリジナルStudio1リディムを演奏しDeeJayがそれにのせるといった当時の日本では考えられないことを演ってました。勿論カット、Rewindはしまくっていてお客さんからクレームも出てたほどでした。

とにかくお客さんより演者の方が楽しんでいた感が強かったですね。まあそれが感じられるレゲエ者にとっても魅力でそんな人はHand gun inna airでしたわ。

まあそれを見ていた初心者レゲエ者がその後同じように反応していきその後のレゲエDanceHallStyleのブームにつながっていったと思います。

とにかく回す音源がジャメイカのリアルタイムでレコード屋さんでは売ってないものが多かったからレゲエ者にとってもある意味良い勉強の場でもあったのです。

やはりジャメイカに行って体験してない人にしてみれば「何これ!?」ですが、本チャンを知ってる人達にすれば「涙モノ」だったのではないでしょうか!     

GunShot!

第四十話 Lovely Labrish2

LabrishのStaffでSというのがおりましてジャメイカに行きたいということでおそらく2Gあたりが私の事を紹介していたみたいなんですが私は全くその事は知らないでいたのです。そしたら自宅の隣のスーパーマーケットで嫁が買い物行った折に偶然見かけて連れてきたんです。最初会った時の私の印象は「アチャ~」でした。典型的な観光客のいで立ちでお土産屋で買ったラスタカラーのタム(ニット帽)を被りしかもそのへんのおばはんに三つ編みまでされてました。そして彼女を連れてやって来たのですが二人とも同じような感じで「こいつら沖縄旅行がせいぜいちゃうんか、ようここまで来れたな」感で一杯でしたが話を聞くとなんと私の実家の近くの出身と聞き「世間というのは本当に狭いもんなんやなあ」と感心させられました。たよんない彼氏でしたがなんとか無事日本へ帰っていきました。感心ついででLabrishのお客さんでKちゃんという娘達3人で私のところへやはり紹介で尋ねてきてくれました。その娘達はインド旅行なんかもそれまでに体験してたのでジャメイカを満喫して帰ったのですがそれから5年ほど経ってKちゃん一人がまた私のところへ遊びに来てくれたのです。話を聞くとロンドンで仕事をしながら長期滞在して日本へまっすぐ帰らずジャメイカに立ち寄ったのこと。そして私がロンドンなら親戚が日本レストランをやってる話をするとなんとそこで働いていたというではあ~りませんか!まあ地球の裏側まで来て「世間は狭い」ことが何回も起こると不思議になりました。

不思議ついでに先述してましたあのPiliPliはやはりLabrish超常連客で私がLabrishへ行くと必ずいてるんです。「よう会うなあ」と思ってStuffに聞くとほぼ毎日来てるとのこと。そして彼の口から「お先に帰るわ」なんて一度も聞いたことが無いのです。私も何度か見ましたが店内で寝てるか店外のベンチで寝てるかでようあれで仕事行けてるんかなあと不思議に思ってました。住んでるところも知らないしまた、家族もどこにいて彼のことを把握してるのかもわからない人でした。今となればもう少し気にかけてあげとけばとつくづく思います。ただStuffから言わせれば迷惑な客だったことはいうまでもないらしい。

第三十九話 Lovely Labrish

Labrishへ行きだしたのは93年の夏からでしかも日本にいなかったので8月だけ帰ってきた時でしたがジャメイカへ来るLabrishの関係者やお客さんに日本からの事付けをたのんだり、またジャメイカでのお世話などしたりして何かと縁はありました。

そんな中で印象に残っているお客さんがいてました。全くその人間の事は知らないのですが私がLabrishへ遊びに行くと当時必ずホンダのカブだったか原付で来店し、店内へ入ったかと思うとまた出てきて店のまわりでウロウロしているのです。レゲエ者というより田舎の兄ちゃんっぽい感じでようわからんので「あいつ誰?」とLabrishの関係者に尋ねたら皆「ようは知らんけど毎日来ててマメという名で元自衛隊員」という答えでした。三十八話でも書いてますがLabrishはRiddimPosseと違い一般のお客さんもたくさんいてるのでけったいな人もいてたのです。私の目には道端に落ちてるRipeMangoにたかる銀バエに映ってました。また、歳の頃は当時40代半ばのサラリーマン風のひとでこの人は反対にレゲエ好きでLabrishはもとよりその後現在に至るまで色んなレゲエクラブで見かける人です。こんな人でもレゲエがそれもDanceHallが好きなんやなあと感心させられました。

もうこの当時はキタやミナミのアパレル関係のお店などのBGMがShabbaやShaggyはたまたパチンコ屋のBGMにまでなっていたので驚きです。

そんな世間の風にも乗ってLabrishは大阪で一番息の長かったClubになったのではないでしょうか。おそらくBarとしては他にも在るかもしれませんが立地条件と時代の風、2GやBun Bunをはじめとするスタッフや演者達の力やと思います。

ちょっとだけかもしれませんが養子の渡辺さんの協力もあったかも?(オーナー)

とにかく90年代から21世紀初頭までのキタのレゲエDanceHallStyleを維持してくれた箱でした。             

Respect!!

第三十八話 Club Labrish

同名でJamaicaにあるゲストハウスとは関係ないのですが先述していますとおりRiddimPosse閉店後に開店したキタ代表のClubでした。オーナーは酒屋さんで雇われ店長としてClub Dynamiteで働いていた2GとBun Bunらがプロデュースしてオープンしたお店です。まあClubとは名ばかりでキャパ的にはBarに等しいのですがとにかく立地条件が良かった。

D・DHouseの正面の阪急梅田駅高架下でアクセスも無茶苦茶良かった。それまでのレゲエクラブの中で一番良かったと思います。いわゆる一等地いうやつですわ。

Dynamaiteの週末の集客には敵わないものの一般のお客さんもレゲエを体験できるところでした。私はオープン当初は日本にいてることが少なかったので93年頃から夏だけ日本に帰ってきてよく遊びに行きました。日替わりで大阪、神戸、京都のアーティストのイベントやセレクターが皿を回しにきていて特にDynamaite閉店後は大阪レゲエ者の宿り木または溜まり場のようになってました。

また、ここに集うアーティスト達がジャマイカに来る際は必ず私のところへ尋ねてきてくれたので色んな意味で助かりました。ここで働いていたSTAFFや常連(アーティスト含む)さんの中には現在も現役で頑張ってるレゲエ者がいて感心するばかりです。

私が現役時代の頃のYouth世代が多くでしたがそのまた下の世代もここを拠点にして活動していたと記憶してます。ちょうど90年代のレゲエブームに乗っていたこともあり、りんくうのJugglinCity、福島のDynamite、キタのLabrishみたいな感じで大阪のレゲエ3本柱みたいになっていたのではないでしょうか。

他の大型店と比べるとやはり高架下ということで天井が低くキャパも小さいということで音はそんなに自慢できるほどものではなかったのですが演者(アーティスト)の幅がとても広く客層も訳の分からない者があまり出入りできないようにしていたので安心して楽しめる箱でした。

だから現在頑張ってる大阪レゲエのアーティストはほとんどここのマイクを握った経験がある人が多いのではないでしょうか。

私は90年代初頭にジャメイカのDanceHallで注目されてきたダンサー(女性)に目をつけLabrishで働いてる女の子を中心にダンスユニットを結成することを進言し、その名を”TopBodys”と命名しました。現在のダンサーのようなアクロバティックな面はなかったのですがとりあえず見たくれと今まで日本のシーンになかったものをいち早く取り入れれたらと考えましたがいかんせんその女の子達が2Gをはじめみんなヒモ付きだったのでSkinOut、CockUpBattyなどを彼氏達が嫌がり最終的には尻切れトンボで解散してしまいました。トホホですわ。

まあ現在のダンサーの本気度から比べたら雲泥の差はありますけどその後のダンサーブームの走りにはなったと思いますよ。とにかく小っちゃな箱の割にはエネルギッシュに富んでいてなんやかんやで21世紀突入まで営業されてました。Labrish閉店後はなぜか餃子屋さんとして営業されてまして面影は全く無くなってしまいましたが大阪レゲエ者の脳裏にはいつまでも梅田のLabrishとして残っているんでしょう。ここにもたくさんの濃い人間が出入りしていたので後々紹介していきますのでお楽しみに!!

第三十七話 大阪花と緑の博覧会

1990年春に通称「大阪花博」という国家イベントが大阪鶴見で開催されました。私は84年にこの会場へ緑樹や花を納入していたのでまさか国家イベントに変わるとは思いもしませんでした。なんせ冬にパームツリーや南国の草木を植樹していたし、土壌も改良せず大半は眞砂土なんです。勿論パームツリーなんかは日本に到着したとたん半分枯れてました。まあとにもかくにも90年には「花の万博」として半年間開催され色んな事故を乗り越え成功したみたいです。私の中では1970年開催の大阪万博のイメージが強くあってショボいという感じがありましたが来場者2000万人を突破して大阪府は勿論、大阪市も大変喜んでたみたいです。

そんなイベントのこけら落とし公演(最初は大阪市制100周年の記念行事から始まった)としてなぜかレゲエDanceHallStyleも取り上げて頂いて私と画伯そして東京からTAXI Hi-FiのクルーChappyや牛若丸らがやってきて舞台にあがった。会場は大阪府主催の銀杏館で客は関係者のおっさん、おばはんばっかり。レゲエなんかわからずワァワァ盛り上がるお祭り騒ぎでした。

私は当時ジャマイカで大流行したPunanny関連で下ネタ全開を披露しましたが後に関係者からクレームがあったみたいでした。しかし、当時の大阪府・市議のおっさん連中に「面白いの~」、「お前らも飲めー」とビールをガンガン勧められヘベレケになってしまいました。その会場は金曜日の夜はDISCOとして運営予定でしたから皆さん無礼講で踊ったり跳ねたりしておられたと記憶してます。

まだまだ収まることもなく我々は例のSt.Ann(四ツ橋沿いのClub)に繰り出すことになっていたので私の車に全員乗りミナミへと向かいました。御堂筋からアメリカ村に入った途端、渋滞です。「なんでや?」と思うが早いか一人の警察官が近寄ってきて「検問です!」「アチャー」としかいいようがなかったですがもうどう仕様もありません。風船をふくらますと「運転手さん降りてきて三角公園の派出所まできてください」

同乗していたTAXI Hi-Fiの皆も心配してくれましたがとりあえず皆に「先に行っといて」と言い、誰かに車を取りに来さしてと頼みました。

その時代は警察も無茶苦茶なことはせず、飲酒であっても酒気帯び扱いにしてくれたものでしたので私は素直に取り調べを受け警官からの質問に正直に答えてました。そうすると担当官が慌てて上司に相談し、別室へ案内され上司が私に今から兵庫県まで帰るのかと尋ねてきました。私は朝までミナミでいてることをいうと「今ここで起きたことや話したことを忘れてくれ」と言い、絶対運転して帰らないということを約束してくれというじゃあ~りませんか!私は「帰りません」と約束をして派出所の別室からでて歩いてSt.Annに向かいました。St.Annに入ると皆が心配していてくれて「免取なったん?」とか「罰金いくら」等々尋ねてきましたが私は「NoPloblemや」と返し何事も無かったように振る舞いました。東京軍団は悪いことしたなあと思いながらも不思議に感じていたと思います。たぶん東京ではありえない事でしょう。

そうしてSt.AnnでまたまたRub a Dub Styleをし、朝を迎えたのでした。

飲んだら乗るな 乗るなら飲むな!

その後も2回ほどジャメイカ人を連れて花博へ行き合成写真を作ったりしてパビリオン巡りを楽しんでいたので私にとっては想いでのイベントだったかもしれませんね。

Respect Inspector !!

第三十六話 St.Ann セントアン

大阪ミナミのアメリカ村といえば現在は「若者の街」として全国から観光客まできてる場所だが80年初頭は小学校があり、表具・欄間屋さんがぽつぽつあるぐらいで寂びれた感ただようところで数件のアメリカ雑貨や古着のお店、無くなってしまったがラハイナというサーフショップなんかが点在していてあまりまとまり感がないところであった。特に阪神高速の入り口より西はアメリカ村に属してるかは微妙だがマイウエイやパームスなんかがあったから四ツ橋筋までを含めるのだろうと思うが殺風景とした場所であったのはいうまでもなかった。反社の事務所やソープ街まであったから特に昼間はそんなに人通りがあるとこではなかった。

そんなとこだからミナミといっても家賃が安くて小さな雑居ビルにお店や事務所を構える若い人達が集まり80年代中頃には現在のアメリカ村のベースが出来上がっていたと思う。かの画伯も先述してるとおり事務所を開いていた。ただ、ここにはレゲエ者が集まる場所は当時アイランドの事務所くらいでレゲエバーやClubなんかがなぜか皆無だったのである。甲賀流のたこ焼き屋はできたけど・・・。

しかし右肩上がりでアメリカ村が発展していく途上で端の端にはなるが四ツ橋筋沿いの地下にレゲエClubがオープンしたのである。あのKAJAの元マネージャーKがスポンサーをつけてオープンさせるみたいな話で画伯が運営をまかせてもらえるみたいな話を当時NYにいた私に連絡があった。

帰ってきて一緒にしないかとの打診もあったがようやくNY生活になじんできた私にとってなんの魅力も感じなかったのとまたキツネに化かされて今の環境を失うのは辛いと思い断った。ただ、箱に呼ぶ演者なんかの手配が必要ならいつでも相談してくれと伝えておいた。

そうして大阪ミナミに初のレゲエClubがオープンしDanceHallスタイル発信の場としてその後のレゲエDanceHallブームの先駆けとなっていくのであった。

とは言ってもオープン当初はまだまだレゲエDanceHallが浸透されてない事もありそんなに盛り上がってなかったとも聞いている、またキタのDynamiteのように外タレを使った大きなイベントもキャパの関係もあり打ててなかったのもあるだろう。そうして運営をまかされていた画伯達もクビになり運営はK兄弟が三ちゃん営業でしのいでいたようだ。まあ画伯達の器量で動かしてみたが大した事もなくこれなら兄弟で回していけると判断したんだと思いますわ。実際客入れてナンボの世界やから客呼べないならイラン!そのかわりどんな曲かけてどんな事したらエエのかがわかればなんとかできるからね。場所もミナミやし。

その後私も帰国した際に何度かイベントに出させてもらいましたがDynamiteの時のような感動は正直なかったです。ただ、アメ村にできたレゲエClubとして大きな期待は寄せてました。やはり大阪の若者の文化はミナミからという何か知らん気概が私にはあったのでしょう。

この帰国中に私はSt.Annにおいて事件を起こしてしまいそこからDeeJay活動を止めてまたジャメイカへともどるのでした。またKはその後St.Annを閉め、関空のおひざ元でキャパもしっかりした半分屋外のJugglinCityというClubをオープンさせ泉州地区初の大型Clubということもありその盛況ぶりは凄かったみたいだ。その後はまたアメ村にもどりジョグリン・シティ、ItoIというお洒落な大型Clubをオープンさせたのであった。Kの一連のClub運営は90年代から2000年代に至るまで大阪レゲエの代表そのものやったと思います。ただ、ItoI閉店後は全く大阪レゲエ界から姿を消してしまった。

フィギュアスケートにでもいったのかなあ~

第三十五話 湿った導火線のDynamite

大阪初の大型ClubがJR福島駅近くの高架下にオープンした。それまでのDISCOとは全く違ったコンセプトでつくられていたので内装は華やかというよりは工場風のどちらかというと殺風景なイメージがありました。

私がそこへ行ったのはジャメイカ・NYでの長期滞在後であったのでオープン後数か月経った頃だったと記憶している。その頃の私はDeeJay業からはだいぶんと離れていて大阪のレゲエシーンの話は聞いてはいたがピンとはきていなかった。世の中はバブルでその余波がレゲエシーンにも波及しつつあり、一流企業の資本がこのClubをオープンさせていた。当時私はNYマンハッタンで日本のバブルを感じていた。

というのもジャメイカからNY経由で日本へ帰る際、JFK空港でロストバゲージに遭いました。初春のまだまだ寒いNYにTシャツ一丁で降り立ったのです。しかも日本へのチケットと多少のお金もなくなった荷物の中、もう最悪でした。まあすぐにでてくるやろと安易に考えてたのですが2~3日しても出てこない。たまたまあのカオルちゃんが仕事の関係でNY在住してたのと彼氏であったMartineが世話してくれたので何とかおれたのですがなくなった荷物の大半は7インチのレコード。これらを日本で売ってまた渡ジャメイカの渡航費にあてようと目論んでいたのがパー。すぐに親に連絡でもしてとりあえず送金してもらう手もあったのですがこれも運命と腹をくくりNYで働くことにしました。勤め先がグリーンカードを申請してやるから長期で勤めてくれということと毛嫌いしていたNY生活もまんざらではないと感じそのまま謳歌してしまいました。

その頃のマンハッタンでは日本企業の進出と名だたるビルの買収や設立でジャパンマネーが飛び交っておりました。またそれに続き日本人観光客・芸能人やらと凄い勢いでマンハッタンに日本がはいってきてたのを感じてました。まあそのおかげもあり私の働いていたジャパニーズレストランも繁盛していたのです。

そうしているうちお金も溜まり別にグリーンカードにも興味がなかったのでジャメイカへ行きそこから日本へ帰ることになったので長期間大阪レゲエシーンから離れていたのです。

長期に渡って日本の社会から離れていたせいもあってすぐに何をしようともなくくすぶっておりましたらあの「ヒドシ2号」から連絡があり「ClubDynamite」でDeeJayをしないか。ということでした。

私は他の人からも聞いてはいたのですが「ヒドシ2号」は学校の先生になるといってジャメイカを後にしていたのにまたなんで?と疑問に思っていたので尋ねてみると やっぱり多分に漏れず「中毒」になってたのです。

これは私もそうでしたが特に一発目はキツい! 彼の場合も先生になる為にと思って帰国したはずなんですが

HipHop改めレゲエDeeJayを始めてこれがウケるウケる。これで型にはまってしまいました。天国のお父さんも草葉の陰で泣いてますわ。彼の人生も180度変わってしまいました。

くすぶりの私にとっては「渡りの船」で週末にDynamaiteで爆発したろ!となったわけです。

週末、そうして久しぶりに会う大阪レゲエ者達と話しつくせないほどの話をしたりして導火線にも火が付き二人は思う存分本チャンStyleのDeeJayを演りました。 いわずともMash Upですわ。

久々に観る人、初めて観る人それぞれが感激してくれたと思います。

やりきった感満開でDynamiteの事務所へ2人でギャラの受け取りにいくとペラペラの茶封筒一つを渡され

「2人で分けて」 と。 私の目の前には人間でなくタヌキがいてました。

その帰り「ヒドシ2号」が 「ワシはええから」と茶封筒をくれましたが 私は「もう二度とせんわ」と答えこんなにレゲエシーンが熱くなったのにDeeJayの環境は以前と変わらないのかと自問しながらこの夜熱かった体が冷めていくのを感じながら帰ったのを今でも覚えている。

第三十四話 きつね と たぬき

日清のどん兵衛の種類ではございません。日本古来よりこれらの動物は人をばかすとんでもない生き物として語り継がれてきた。実際これらの動物がそんなことをする訳でもなく科学的根拠もないのである。

私はそれは人間が騙したり欺いたりした輩を称してこう呼んだのだと考えるのです。実際私も体験した上でそんな輩をよくよく見てみると「きつね」や「たぬき」の顔にそっくりなんですね。欺かれたりしてそう見えてしまうのかは不明ですがやっぱり似てるんですわ。

大阪レゲエの世界でもご多分に漏れずいてましたわ「きつね」と「たぬき」。実際、社会の中ではウヨウヨいてると思いますが大阪レゲエ界という小さな小さなパイの中にまで入り込んでくるとは油断も隙もございません。

アーティストに近づいてはホロっとくる様な話をしてくるのです、たとえばCDやアルバムなんかのね。またはこんなプロジェクトを立ち上げるから協力してくれとか。その当時のレゲエアーティストなんかはもう三ヶ月以上食べ物にありついていない野良犬です。しっぽを振る振る、お手もする、おすわりもする。

きつねやたぬきにとってチョロいもんですわ。とにかく無給に近いかたちで協力させられます、犬は夢みてるから何の不服もなく忠実にがんばっていくのですが一向にしてアルバムやCDの話が始まらない。

勘のいい犬はこの時に「ああ、これ利用されてるだけやな」と しかし鈍感で度量のない犬は忠実についていきよるのですがこんな犬もアホやないからきつねやたぬきに信頼されて任されるようになった時に金持ってトンコしたりね、犬がきつねやたぬきを欺く場合もありました。

時勢に乗って商売繁盛したりすると誰がどう見ても儲かってるやん という時でもきつねやたぬきは「全然やねん、もっと大きい事せな」 というわけですわ。人の台所事情は知らんけど金儲けしてるネタは何やねん?

「レゲエ界に還元でもせえよ!」 きつねやたぬきにとってレゲエなんてその時の金儲けの道具つまり木の葉やねんな実際。そして、アーティストが一生懸命に収集した情報やスキルをいとも簡単に自分の道具として使い使いきったら次みたいなものですわ。きつねやたぬき側からみればこれが商売の秘訣なのかもしれませんが我々から言えばバンパイヤーですわ。あほらしいてやってられません。

大阪レゲエシーンを振り返って誰がエエ目をみました?アーティストでは皆無ですわ。かろうじて先述したBoogieくらいです。それでも知れてると思います。当時からまだ現在でも頑張ってるアーティストもいてるけどおいしい目には会ってません。なぜか?きつねとたぬきが持って消えてしまいました。

流行というのはなぜか回り回ってくるのですが次にいつレゲエブームが来るかは誰もわかりませんがまたその波が来たときはまたまた「きつね」と「たぬき」が現れるのでしょう。

これってレゲエ界のみならず世の中にいっぱいてんこ盛りである話ですから。あしからず。

第三十三話 うだつの上がらない稼業DeeJay

現在でもさほど変わり映えはしないがレゲエDeeJayという稼業はそんなに華々としたものでない。とにかく日本に於いてはほとんど知られてなくどうしてもHipHopのラッパーの影で虐げられた稼業なんです。これは昔からほとんど変わらない。おそらく一般のメディアの中で扱う品目としてアメリカのものが優先されるのでしょう。そして、一般の人達がラッパーとDeeJayを見ても同じものと捉えるんじゃないでしょうか。それでもレゲエDeeJayにこだわる者としてはどうにかして営業先をつくらなければならないのでいろんなお店(ClubやBar)にレゲエイベントの提案をしたりプランナーみたいな人に会って話してみたりと何かとしんどいことだらけです。私の場合はあの顔の大きい(広い)画伯にその方面をほとんどまかせていましたのでその面でのしんどさはあまりなかったのですが精神的に営業が無い分しんどかったのはありました。だから普通に仕事をして週末なんかで営業をするといった片手間なやり方しかなかった。それでなかったら名前を売ってどこかの芸能プロダクションに所属する要するに「芸能人」の仲間入りです。

私はそもそもDeeJayを始めるにあたっては全くそんなことを考えてもいなかったし、レゲエDanceHallStyleを広めたい一心だけだった。いわば自分が楽しめる世界をつくりたいくらいの気持ちだけだったのでマネージメントや各方面への売り込みなんか全くをもってしてなかったし、する考えもなかったが生業としてやっていくにはやはり必要なのがその頃になって初めて痛感したものだった。当時やっぱりDeeJayをやろうとした皆が同じ悩みをもっていたと思う、そうして売れる為に東京を目指したり、リリックスを7インチにおとしてみたりと各自いろいろと努力していた。その点やはり東京なんかで営業してるほうが「楽そう」、「近道」なんじゃないかなと思い東京のDeeJay達に尋ねてみるとそうでもないらしい。実際 Clubなどの数も多く営業しやすいかもしれないがDeeJayの絶対数もそれ以上に多いということだ。DeeJayがまだ数人しかいない時代は数少ない営業でも確実にお声がかかって仕事になるのだがレゲエがどんどん熱くなるにつれ雨後の竹の子のごとく現れたDeeJay連中とシェアせざるを得ない訳です。彼らのほとんどがノーギャラときてるから使う側にとっても都合が良いのです。使う側としてはそもそもDeeJayを把握してることもなくお店やイベントの「賑やかし」としての使用法やったのです。そんな環境でDeeJayが育っていく道はなかったのでした。芸能界なんかでもやはりレゲエに関しては興味はあるがリスクが高いというイメージが蔓延ってるんでしょうね。私が知ってる限り何度かの波がレゲエを持ち上げた時期があったけど、どうみても天井がみえてたからなあ。

結局、私はDeeJayという稼業は「生き方の中での弁士」じゃないかなというところへ行きついたのでした。それは世の中のリアルの紹介、つまり世情・矛盾・疑惑などなど勿論、恋愛や回顧でもいいから聴衆にむかって発する弁士という結論に至ったのでした。これはレゲエにとっても原点だといえるのです。もともと音楽という物自体そうであったと思う。ただ、時代と環境とお金が変えていったのだと私は解釈してます。

今現在、日本のなかでも特に政治や世情に皆さん色んな感情を持ってると思うし思わないといけないと思う。TVなんかのメディアが発していることに頷いてるだけでは一向に世の中変えれないしいつまでも権力者の思うがままに動いてしまいます。いつかDeeJayが世間を揺らす時代が来ると信じて生きてる今日この頃です。

わたしの好きな漫才さんで人生幸朗がいわゆる「ぼやき漫才」というのを昭和時代にやっておられた。「皆さん知ってはりまっか? 研ナオコのカモメはカモメいう歌、当たり前やろう何ぬかしとんねん!!そんなもん言われいでもわかっとるわい!そんな事、楽団使うて大層に言うな!!馬鹿者」

こんなリリックスやってみたいですわホンマ!・・・

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