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第二十二話 DeeJay Fxxxin Jun

二十一話で記述したとおり私の救世主になったJunですがもともと「ええとこのお嬢さん」でして、最初の出会いがIslandかRiddimPosseだったかは定かではないがRiddimPosseにはほとんど家が近所ということもあり来店してたのではないでしょうか。我々のDeeJayぶりを見ているうち突然「私もDeeJayするわ」と言い出しJoinしてきたのである。そしてDeeJay第一声が 「YeahMan!I’m DeeJay Fxxxin Jun!」でした。私は傍らで吉本新喜劇のずっこけになってました。とにかく若いときから「大阪のおばはん」でとにかくパワフルで「お嬢さん」というにはほど遠い女でした。私流に言うならば「ゴキブリ」のような女です。現在も前述してますが在ジャメイカで長くゲストハウスやDubPlate代行など多岐にわたりがんばって生きてます。これも前述してますが神戸須磨での「Who Rules」のプロデュースなども手掛けたりかたや薬剤師という面もあってようわからんというのは典型的なレゲエ者でかつての依存者でした。私はなぜかJunとは「くされ縁」というのかいろんなエピソードがありました。そういう事も含んで自らが付けたDeeJay Fxxxin Junというネームは後になって納得した次第である。救世主 Junとジャメイカへ同行の際のエピソードです。まあ私は雇われガイドみたいなものでしたのでNYでの滞在は同室でした。これは普通なら羨ましいくらいですがなんせFxxxin Junですので苦痛。それよりもジャメイカへ行けるという気持ちで我慢できたのですが到着の夜食事をしてホテルに戻る道であの「スモーク」のおっさんに出会った。私はいかにも知ってる風に「いくらや?見せてみろ」とやってみた。まあJunのガイドとしてカッコつけたかったんでしょう。そんなやりとりしてるときおっさんがモノを出した瞬間 パァ パァ パァとパトカーの警告サイレンそしてマイクで何か言い出した。おっさんは走り出し、私もそれに察し、「Jun 逃げ!こっちや!」おもいっきりのダッシュですわ。そしてホテルへ逃げ帰り「危なかったわ、よかった逃げれて。ジャメイカ行かれへんとこや!」「なんやったん?大丈夫なん?」「まあいけるやろ」そんな感じでその夜はちょっと緊張ぎみで部屋でいたら なんか異様なにおいがするではありませんか。クンクン くんくん ありえへんけど卵のくさった匂いが充満してきた。「クサー!なんやこの臭い!」 「なんか臭いする? わからんで」 「何を言うてんねん!お前屁こいたやろ!!」 「知らんよ!」 「ウソこけ!お前や!正直に言うてミィ!!」 「バレた~」 「お前殺したろか!!ウワーくっさ~たまらんわ」 先ほどまでの警察の恐怖と緊張感の末 このクッサい屁の臭い。私の怒りは爆発したのはいうまでもない、寒いNYであったが窓全開で過ごすハメになってしまったのである。

Fxxxk U!!

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第二十一話 依存症発症

念願の渡ジャメイカを果たしてパワー全開で帰ってきた日本でしたが当たり前のごとく行く前と変わりようがありません。変わったのは私であって大阪レゲエシーンはなんら変化なくしかもまだまだ寒い時期でしたからレゲエのレの字もないという状態です。とにかく私にとって殺風景な日本でジャメイカを少しでも感じれる場所であるRiddim Posseや画伯のORANG OFFICEへ足繁く通うことになる。そこでリアルタイムのジャメイカのトレンドや体験談をレゲエ者達に伝導していくのが日課になってしまう。そして、見てきたDanceHallStyleを披露できるイベントをやろうとSや狩集画伯と相談し、まづはRiddimPosseで凱旋イベントをやろうとなった。ジャメイカへ行けないレゲエ者にとってもリアルタイムのダンスホールシーンを知る絶好の機会でもあるし、久しぶりにレゲエで楽しめる機会とあってたくさんのレゲエ者がそのイベントに集まったのである。たくさんといっても何百何千ではなく数十人からせいぜい百人の世界であるのはその当時のレゲエ認知度の低さを物語っているのだがそれでも我々にとっては凄いことであって特に私にとっては溜まっていたフラストレーションを爆発させれる機会となって盛りに盛り上がった。「勢い」というのは怖いものでそれ以後いろいろとパーティーを企画して開催し大阪レゲエシーンも活気がでてきた。と同時にその当時には雑誌SoundSystemというものが刊行されていて全国でもレゲエ者が増殖していたのでレゲエDanceHallに興味を持つ若い世代が増えていたと思う。その後 神戸のPokiBokiPosseという演者もRidimPosseに来るようになった。そうこうするうち大村君がジャメイカから戻ってくるというので私は待ちに待った。というのも私が去った後気にかかっているたくさんの事が知りたくてとにかく早く帰って来て欲しかったからだ。この頃からジャメイカにまた行きたいという欲望が発症し始めるのである。凱旋の勢いもそれなりに落ち着いてきだし日本でいるのが辛く感じてきだしていた。とにかくイベントが増えて出演できる回数も増えてくれたのは有難い話であったがいかんせんギャラが少ないのと私も生活がありましたし、それより次の渡ジャメイカという大きな目標があってお金を貯めないとという現実が浮かれてる私に覆いかぶさってきました。そしてお昼の仕事をしながら何とかDeeJayも週末に演るという掛け持ちStyleを選んだ。また以前の普通の生活にもどりつつあった私には日に日にジャメイカに行きたい気持ちが高まりそんななか大村君が帰ってきていたので近所でもあったので話を聞きに会いに行った。「その後のジャメイカ」の話を聞いたのが最後、私のジャメイカ依存症が全開になってしまった。今の状態でお金貯めてジャメイカに行けるのはいつになるんやろう? 1年後2年後という風に考えていくともう頭の中が爆発しそうでした。またまた拍車をかけてくれたのがイベントなんかで出会ったこれからジャメイカに行くという数人の女性からの質問に応えていくうちにドンドンと記憶が蘇りムシが沸いてくるのであった。その後彼女たちもご多分に漏れずジャメイカから帰ってきて「依存症」になってしまっていた。うだつの上がらない日々を送りながら禁断症状と戦っているうちになんとあのFuckinx5 Junがジャメイカに行くというのだ。「渡りに船」とはこのことだとばかり ガイドするから一緒に行こうと申し出るとすぐにOKが出た。条件はエアーチケット。Blows an Settle !!  「神様 仏様 JUN様」 でした。これでジャメイカに行ける! 皆とまた会える! 私は依存症から逃れるということでこの後仕事にそしてDeeJay業に出発の年末に向け励むのである。ただ、この時には予想もしてないことが起こるのを私は知らないでただただ喜ぶばかりだった。

「人生そんなに甘くない」

第二十話 Gone a Negril 2

ようやく税関を通って空港の建物から出ようとすると門番のようなお姉ちゃんに止められた。「何処へ行くんや?ツアーか?」と尋ねられた。Negrilでツアーではないと応えてとにかく暑いし建物の軒先の影で荷物を置いた。「大村君ここから何で行くん?」 「バスがあったと思うねんけどなあ」とりあえずバスということになったのでバスを待つことにした。まだ我々は空港施設内なのでフェンスが張られてる中でいたのだがそのフェンス越しに数人の男が「ミスター陳」の連発。中には「チノー」と叫んでくる者もいた。「大村君あいつら何してるん?」 「あれはタクシーの呼び込みや、あんなんに乗ったらボッタくられるから相手にせんでええわ」 するとマイクロバスがゲートを開けてもらって入ってきた。やっときたかと思いきやホテルのバスらしく宿泊客の送迎バスだ。白人のツーリストを乗せまたゲートから出て行った。数台の送迎バスがきたがいっこうに路線バスなど来ない。「大村君 前回は何で行ったん?」「タクシーや」西の空がオレンジ色になりかけた頃 ツーリストボードの案内のお姉さんが「あなた達は誰かを待ってるのか」と尋ねてきたので路線バスを待ってると応えると 路線バスはMontegoBayのダウンタウンに行かないとないよという。もう日も沈もうとしてた時だ。「どうしよ?」 ふたりは顔を見合わせた。私には考えようもない。フェンスにはまだ数人の男が「チノ! コミャ コミャ」と叫んでた。お姉さんはひとりの白人の兄ちゃんを連れてきてこのひともNegrilへ行きたいから3人でわたしの友人のタクシーで行かないかと提案してくれた。NegrilまでUS30でひとりあたりUS10。もうあたりは暗く私は早くNegrilへ行きたいしそうしよと促した。そんなこんなで小太りの開襟シャツのおっちゃんがタクシーで迎えにきてくれた。JUTAの正規のツアータクシーらしい。しかも古いといえども大きなアメ車だ。白人の兄ちゃんはまだまだ緊張ぎみだ、運転手に何か話しかけられてるが無表情に応えてる。話せない我々は後部席に乗り窓をあけオレンジ色の街灯が印象的な街並みを見ながらアメ車の何ともいえない乗り心地でぬる~い風がようやく心地よく感じてきた。喧騒のダウンタウンを通り 「うわあJamaicaやホンマもんや」 と興奮しだしてきた。白人の兄ちゃんは無言のままや。「大村君ここから何時間くらいかかる?ホテルとれるんかな?」と次の問題を考えた。何せあの路線バスの件以来、不安がよぎってきてたからだ。「何とかなるで、最悪マッキーいうおっさんがおるしな」この余裕が怖い、そのおっさんが引っ越しとかでおらんかったらどうすんねん!?そう思いながらタクシーはMontegoBayの街を出た。あたりは街灯もなく月明かりで青白く幻想的でどこからかピーピーともの悲しい音がする、日本の鈴虫なんかの虫の声かなと何ともいえない情緒を感じた。ええなあJamaica ホンマええわ やっぱり来てよかったわ 大村君に何度となく言った。時折、あのオレンジ色の街灯がまた目に優しい。ドライバーのおっちゃんが何か飲むかと聞いてくれた。こじんまりとした街のバーの前で車を停めた。「エエ感じやん!」おっちゃんの行きつけみたいで日本でいうママさんにビールを注文してくれた。白人の兄ちゃんは車から降りてこないのでおっちゃんが呼びにいった。「なんや暗いヤツやなあ、ビビりまくっとるなあ」ふたりはさも常連のように兄ちゃんをさげすんだ。ここで大村君が「おれがおごるわ」とみんなのビール代を払ってくれ私はバーの隅にあったジュークボックスを見にいくとママさんがつぶれてるといった。Jamaicaに着いてからまだ音楽を聴いてない、タクシーのなかでもラジオニュースのみ。Jamaicaてこんなんか!?想像してたほどレゲエ、レゲエしてないんやと感心した。そうして我々はまたタクシーに乗り込みNegrilへと向かった。さっきのバーでおっちゃんはママさんにジャパニーズやと説明してたのにママさんは私のことを 「チャイニマン」と呼んでいたのには驚いた。今やジャパンとは経済大国で誰でも知ってると思っていた私は井の中の蛙でした。海沿いのクネクネした道を走りいくつかの小さい町を通り抜けながらようやく広い道路になったと思ったら大村君が「思い出したわ」とつぶやいた。Negrilや!!もうちょっとでマッキーとこや!いわゆるバックパッカーとして我々二人は憧れのJamaicaにこうしてたどり着いた。

*百物語ではここまでの話でJamaica滞在の話は別の物語でお話しすることになります。

お楽しみにしていて下さい。

第十九話 Gone a Negril 1

どんよりとした鉛色のNYの街を脱出しょうとJFK空港へ 「さあ、JAMAICA へ出発や!」とばかり Air JAMAICAのカウンターへ搭乗2時間半前に着いたのだがもうそこにはそれこそ黒だかりの人たちがいてカウンター越しにヤイヤイ言うてる人、大きな段ボール箱をテーピングする人、布製の大きなスーツケースにこれでもかというくらい詰め込んでファスナーが閉まらない人なんかでいっぱい。もうカウンター前はもみくちゃ状態だ。とにかく搭乗手続きをする為に並んでみるがなかなか進まない。女性スタッフがツーリストの我々をこっちへ来いと呼び荷物のチェックをして搭乗手続きをしてくれた。里帰りの人たちがほとんどで大量の荷物検査に時間がかかっていたのである。我々ツーリストはそそくさと手続きが終わったので搭乗口へ急いだ。「しかし大村君えぐかったなあ、あんな荷物もっていくねんなあ」「あれまたジャメイカ着いたらまた、時間かかるねんで」そらそうやとゾッとした。20分くらいのDelayでようやく飛行機は離陸準備完了。JAMAICA No Problem という標語を私は思い出した。機内はソウルで経験したあのおばちゃん達の喧騒とよく似た感じでワイワイガヤガヤしてるうち飛行機が走ると同時に一斉に喧騒が止んだ。そうして飛行機が離陸して急上昇するとまわりは緊張の何とも言えない空気が張り詰めた。皆やっぱり緊張しとるんやなあと感心するほどの変わりようだったが安定飛行になるとまたもや喧騒が戻ってきた。私もこのふいんきのほうが有難かった。そうこうしてるうちに、兄ちゃん風の男に「ミスター陳」と声をかけられた。なんやねんコイツと思いながらそいつを見るとその兄ちゃんは私の持ってきたラジカセを指さして「売ってくれ」と言ってきた。なんでやねん!今からJamaicaにいって聞いたり録音とかせなあかんのにと思ったが思うだけで言えませんでした。「No,Icannnot」それだけいうと兄ちゃんは今度は持って帰るのかと尋ねてきた。そもそもこのラジカセはパナソニックが重低音を重視してつくったレゲエを聞くための最高のラジカセでしかも日本ではもう買えないときてるから確実に持って帰るでとは説明できないので単に持って帰ると答えた。兄ちゃんは自分の席にもどるまでずっと売れと交渉していたが横のおばちゃんに「ミスター陳は売れへんわ」と言われてあきらめた様だった。3時間ほどたつと下にはエメラルドグリーンのカリブ海が見え始めた。「ムッチャ きれいなあ 沖縄よりきれいで」そういう私に大村君は「Negril行ったらもっときれいで」と私の気持ちに空気を入れてくれた。うわ〜もう到着するで飛行機は下降し始めた。じっとそのきれいな海を見つめながらどんどん下がっていくのを感じた。機内はまたもや緊張の空気が張り詰めている。そして、いよいよ着陸!ドンとタイヤの音がして逆噴射して急激に飛行機は減速 もう機内はヤンヤヤンヤ!「Yeah Man! Come Back Jamaica!」 飛行機が停まると同時に皆が上の棚から荷物を取り出し始めた。我々は喫煙席だったので後方である、前の人たちが荷物をおろして出ていかないと降りれない。やっぱり心配してたとおりであった。まあ遊びに来てる我々には時間はたっぷりあるので気長に待った。思ってたほど待たずに飛行機からでてタラップに立つと蒸し暑い。ダウンを着ていた私はすぐ脱いで階下へ進んだ。そしてゾロゾロと屋内へと進んだが何ともショボい空港だ。昭和40年頃の伊丹空港みたいだった。中では我々ツーリストの為に子供たちがトラディショナルダンスで歓迎してくれた。それを通り過ぎると緊張のimmigrationだ。ツーリスト専用の列だから空いているし早い。が 私には重荷には変わりない。Next! とりあえず呪文どおりになったがまだまだ日本人のツーリストが少ない頃なのでいろいろと質問攻めに遭う。アメリカ人の英語と違って聞きやすかったのとゆっくり話してくれたので何とか理解できて応えれた。そして審査官はNo problem!といってパスポートを返してくれた。やったあ 緊張がいっぺんに解け税関へ向かった。またまた心配してた以上の大混雑!あれだけJFKで苦労して詰め込んでた荷物を出して調べられている。「エグいなあ」と言ってる我々をまたもや係官の人が「ミスター陳、コッチにこい」と比較的荷物の少ない人の列に案内してくれたのでそんなに時間はかからなかったがそれでも終わったころにはもう夕方になっていた。Welcome JAMAICA !

第十八話 Apple City

「冬のNYは寒い」のは当たり前なのだが空気にさらされている部分が痛い。初のNYである我々にはそんなに苦でもなく、見るもの・見るものが新鮮でとにかくマンハッタンを歩き回ってました。17話で先述したとおり我々はワシントンスクエアーホテルで宿泊していたのだが、50mほど行けばすぐあのimmigration審査官に「毛布持って行けよ」といわれたワシントンスクエアパークがあった。到着翌日の朝、ひとり散歩がてら行ってみるとリスがいっぱい走り回っている。マンハッタンってアスファルトとコンクリートの街という私のイメージとは違いなかなか自然豊かなのである。公園内に入ると凱旋門があり、近くにNY大学があるせいか私と同世代の若者がたくさんいた。うろうろしてると「スモーク・スモーク」といって私とすれ違っていく人がいた。すぐにはピンとこなかったがホテルへ戻るまでに何回かそんな人と行き違ったので「あぁ そうなんか」と納得したのだった。このホテルは大村君がマンハッタン観光に便利やからというて薦めただけあって歩いて行けるところがたくさんあった。その当時トレンドのSOHOやEastVilledgeそしてBlueNote,BottomLine,CBGBなどのナイトスポットにも近いところだった。現在の42ndとは違う当時の42ndStは大阪の日本橋と新世界と飛田新地を足して2で割ったようないかがわしい観光地であったのだがそれはそれで私は好きだった。バカでかいラジカセやパッチモンが店頭にたくさん並んでいてウインドウショッピングするにはもってこいだがポン引き・スリ・はたまた強盗が日常茶飯事。とにかく汚いイメージだったのは記憶にある。数年前に射殺されたジョンレノンが住んでたダコタハウスにもハーレムに行った帰りに寄ってみた。Brooklyn,Queens,Bronxには地下鉄を利用して行ったのだが映画で観る落書きだらけでときおり車内の電気が停電する日本では考えられん電車であった。また、物乞いもひっきりなしに乗ってきて「私はAIDSです」と書いた看板といくらかのクオーター入った紙コップをジャラジャラ鳴らしながら車内を歩き回るのだった。当時、世界中を恐怖に陥れたあのAIDS。私もNYに行くことにやはりAIDSは大丈夫なのか空気感染はしないのか本当に心配していたが政府の発表で性行為以外ではうつらないということで何とかこの旅行を決めていた。こうやって短期間にNY巡りをしながらジャメイカ行の格安チケットも手に入れようやく頭の中も早くジャメイカに行きたいモードに戻ってきた。大村君はもとより狩集画伯らからもいろいろと聞いていたジャメイカ、自分なりにもジャメイカ人アーティストに聞いたり本を読んだりして想像してるものはあったのだが何せ一度は結婚の為にあきらめていた渡ジャメイカ それを蹴ってまでも行きたいジャメイカ やっと明日ジャメイカへ行けると思うと居ても立ってもいられなくなり「最後の晩餐や」ということで49Stの「さっぽろ」で日本食を食べにいったのである。そしてその夜またもや呪文の練習。宿はどうしょうと聞く私に 大村君は「マッキーとこになるんちゃうか、入国審査書にはNegrilの「SeaScape」いうて書いといたらエエわ」 「まあジャメイカはアメリカと違って何とかなるわ」NYの時と違って大村君は以前に経験してるので余裕に応えた。私も向こうに知ってる人もおるならまあ安心かなとたかをくくってまたまた呪文の練習に。「ジャパン、サイトシーイング、ワンマンス」

そうして最後のNYの夜はふけていったのである。

第十七話 初体験 *後編

飛行機が離陸して安定飛行になると私達は飲み放題のビールを頼み、とにかく飲んでから寝てやろうと考えたのだが韓国のおばちゃんたちが荷物をゴソゴソしだしたと思うと中から大量のキムチを出してきて一緒に来た人達に回しだした。機内はキムチ臭満開!でも大韓航空機やから皆平気や、そこらじゅうでキムチを食べだした。おばちゃんはビールを飲んでる私達にも食べろと回してきた。「サンキュー」とええアテができたと思い頂いた。やっぱり本場のキムチだけにおいしい、またまたビールがすすむ。機内はおばちゃんの大きな声とキムチ臭と韓国民謡で宴会場さながらになっていったのであった。「こら寝られへんな」といいながら飲んでいたがそのうち眠気がでてきたので寝始めるとおばちゃん達もお開きになり寝始めた。目が覚めるとまだまだキムチ臭満開の機内で韓国の人たちが荷物の整理をし始めた。もうすぐしたら着陸やねんなと窓のシェードを開けると外は明るい。時計を見て確認するとまた、緊張し始めてきた。おもわずポケットからガイドブックを取り出してイミグレーションのシュミレーションをおさらいした。そうしてガイドブックに載っている入国審査書の書き方をみながら記入をし、「ジャパン」 「サイトシーイング」 「トゥーウイークス」 「ワシントンスクエアーパークホテル」 呪文のように何とか覚えてJFKに到着! NYですわ。映画でしか観たことがないApple City。しかし、伊丹空港とはかけ離れた大きな飛行場ではあまりNY感はあまり感じえなかった。Immigrationのサインを見ながらぞろぞろと歩いていくと警官が犬を連れて近寄ってくる。「なんやねん、イヤキチか!」というくらい警官は犬を私の足元に近ずけてきたが無視するように私は前へ進んだ。係官が搭乗者をアッチに並べコッチに並べと手際良くさばいていた。私はどの審査官がやさしそうか見まわしたが係官に向こうの列に並べと指図されそれに従った。とその時ドッと緊張感が私の肩にのってきた。ひとりの韓国のおばちゃんが審査官に何か言ってるのだが審査官が理解できないのか他の人を呼んだ。おそらく韓国系アメリカ人で通訳しに行ったみたいだ。その光景を見た瞬間私は凍ってしまった。呪文をもう一度唱えてみたが私の前のほうで審査しているのを見ていると何か違う質問をしてそうな感じでまたまた目がテンになってしまいました。「えっ、ホンマかいな!どないしよ?」どのガイドブックにもイミグレーションのシュミレーション応対はあの呪文やったのに・・・ 時間は罪や!そんな時の時間がたつのは早い。「Next!」 審査官に目で呼ばれた。「あかん頭の中が・・・」 「How you doing?」 やったと思う審査官が話しかけてきた。「ファイン」 まあこれくらいは答えた。そのあとの質問は何をどういう風に尋ねられたかはさだかでないが何とか呪文どうりでいけたのだったが 「NYでの滞在先を聞かれた時私はワシントンスクエアーパーク」と答えていた。ホテルを言い忘れてしまっていたのである。審査官は「毛布もってきたか?」と尋ねてきたので「No」「NYは寒いぞ」と笑いながらパスポートにスタンプを押し、サインして返してくれた。そのときは何を言うとおんねんくらいにしか感じなかったが後になって気付いて赤くなってしまった。「終わったあ」一気に体中に血が回った。先に終わっていた大村君のとこへ足早にむかったのである。マンハッタンへは予定通り地下鉄に乗って向かった。映画で観る地下鉄ではなくこぎれいなエクスプレスだ。こうして何とか我々は無事初めてのNYそしてマンハッタンにたどり着いた。出発前にふたりでどうしようとか心配してたことが一気に消え去りまあ何とかなるんやなあと安ど感いっぱいでホテルに到着し、初めてのNYをどう観光するかをまたまたガイドブックを見ながら計画たてていくのであった。時はXmasシーズンが始まろうとするきれいなネオンや看板でかざられたストリートそして、映画で観たマンホールから湧き上がる蒸気、ブロードウェイを走るイエローキャブ、ああニューヨーク!!

第十六話 初体験 *前編

私がピレーネで再会した幼馴染の大村君(寛平ちゃん)と家が近所なのでいつも仕事が終わったらジャメイカの話をしに訪問していた。お互い一人住まいしてたので気安く行けた。そもそも大村君たちはジャメイカへいくつもりもなくLA(ロスアンゼルス)からフロリダ・マイアミへアメリカ旅行をしていてたまたまジャメイカ系アメリカ人から「ジャメイカに行った事がないなら是非行ってみろ」と勧められて行ったらしい。まあそれまでは彼らもレゲエ者でもなく、依存症にも悩まされることもなかったらしいが行ったが最後特に大村君は感染してしまったらしい。私もその頃には本当に「行きたい行きたい病」で悩まされて仕事も辞め渡ジャメイカの道を進めていた。ふたりが意気投合して「ほんならイコカ」となったのはいうまでもない。そこからは早かった。まだ当時はジャメイカにへ行くにはイギリス領事館でVISAを取得しなければならないし勿論、直行では行けないのでアメリカ経由となるのでアメリカVISAも取得しなければならなかった。ツアーでいくなら代理店が代行してくれるのだがなんせ個人旅行なので全部自分たちでやらないといけない。銀行預金にありったけの金を入金して証明書を発行してもらい往復のエアーチケットを購入し領事館・大使館へむかったのであった。そのころの日本は世界有数の経済大国の一員になったばかりで日本人のパスポートとお金さえあればVIZA取得はそんなにはむずかしくなかった。とにかく語学力に乏しい2人であったのでインタビューと聞いてビビッてたのは事実やったがそこは日の丸が助けてくれましたわ。渡ジャメイカの日程はやっぱりXmasシーズンにかかる年末年始やろということで12月初めにNYへ行ってXmas前にジャメイカに入ろうと。その時点ではもうまだ見ぬジャメイカにFly Awayや!ただ、先述したように我々は語学力に乏しかったのでアメリカ入りが相当不安でした。大村君も「ジャメイカは何とかなるけどアメリカのイミグレーションはうっとおしいで、特にNYは知らんけど厳しいと思うわ」の言葉にまたまたビビッてました。とりあえずアメリカのガイドブックにイミグレーション通過のシュミレーションが載っていてそれをとにかく暗記しましたわ。応える順番はこう 「ジャパン」、「サイトシーイング」、「トゥーウイークス」、「ワシントンスクエアーパークホテル」 どのガイドブックの順番もそいう風に質問されると書かれてたのでとにかく覚えました。いよいよ旅立ちの日が来て狩集画伯やかっちゃん達に見送られながら搭乗口へ当時最安値の飛行機といえば大韓航空で2,3年前にソ連に撃墜されててホンマ大丈夫かいなと心のなかでつぶやいてました。そうしてまずはソウルへ、ソウルに着くとえぐいほどの韓国人のおばちゃん連中がのってきてうるさいのなんのて寝てられへん。しゃあないから最後部へ行ってタバコを吸いながら窓からソ連機がこないか見張ってましたわ。そうこうしてたらアンカレッジ到着。無事ソ連機に撃墜されることなくアメリカに。アンカレッジでは給油か整備かで1時間ほどおろされて土産物を見にいってました。まだ出発したばかりで土産を買うこともなく、うどん屋があったのでうどんをすすってから免税店に戻ると一人の日本人の女の子が買い物していて向こうから「こんにちわ」と声をかけられたので「もう土産物買ってるん?」と尋ねたら毛皮のコートや大きなものを買ってました。「安いよ〜」いやいや帰りに買えよと思いつつ飛行機へ戻りました。さあ、いざNYへ!たくさんのアジェマとジャメイカ依存症の2人をのせて大韓航空機はJFKをめざしたのであった。

第十五話 レゲエ***

80年代初頭というのはレゲエというジャンルは本当に一般には浸透しておらず多少洋楽に興味ある人にようやく認知してもらえるくらいのもので、一般的にイメージされてたのは「夏の音楽」、「ンチャ、ンチャ、ンチャの音楽」、ラスタにいたっては「浮浪者」てな具合です。当時の数年前にはあのBob Marleyが来日してるにも関わらず認知度はゼロにちかいものでした。ただ、世界的なアーティストがレゲエをとりいれた曲をつくったりレコーディングアーティストにジャメイカンアーティストを起用したりしてレゲエをBigUpしてたので若い世代にはそろそろトレンドミュージックとしてとらえる人が増えてたのも事実だと思います。80年代前半はご存じのとおりDISCOがやはり若い世代の集う場で全盛期を誇ってましたが中頃から衰退期を迎えDISCOはだんだんと消えてゆきました。それにかわって脚光を浴びたのがWorldMusicやったとおもいます。今までマイナーで認知度のなかったアフリカやアジアはたまた中東なんかの音楽にトレンドが移っていったのでした。レゲエは勿論、その中の中心にあったように感じます。ちょうどそのころに私は地元の喫茶店なんかを貸切にしてレゲエパーティーを開催してました。なぜなら都心部であるミナミやキタではコストも高いし週末なんて借りれない状態だったからです。ただ地元は義理ごとで全く興味なかっても前売りチケットを買ってもらえる人たちもたくさんいてコける心配がなかったのが一番の理由でした。でも、お客さんの大半がDanceHallStyleなんか全く知らないわけで「何してんねん!?なんで曲止めんねん!」とクレーム出してきます。とにかく苦労しながらもいつも最終にはBuffloSoldierとOneLoveの合唱で締めくくるというパターンでお客さんには喜んで帰ってもらってました。やっぱりなんやかんやいうてもBobMarleyでしたわ。郊外の人達にすれば近場で楽しめるというのが一番の理由でDanceHallStyleなんか2の次やったとヒシヒシと感じてました。そんななかでも若い世代には感銘を打ったコたちもいて大阪や京都のイベントにわざわざ来てくれてた人たちもいて本当にうれしかったです。この時期におそらく全国的だと思いますがレゲエバーなんかがたくさんできたと思います。日頃行くところのないレゲエ者はそこへ集うことになり、またそこでもパーティーが開催されていきました。京都のRubDubは全国発の本格レゲエバーではないでしょうか。大阪では前述してますRidymPosseだろうと記憶してます。そうしてBarにあきたらず「レゲエ焼き鳥」、「レゲエ寿司」、はたまた「レゲエ散髪」なんかもできてきてレゲエがどんどんと認知度が上がりそのなかでDanceHallStyleに目をむける若い人たちが増えていったのも80年後半からだったと思います。そういえば「レゲエ宅配」と名前はつけてませんが私もバイトでガンガンレゲエを流しながらお中元を宅配してました。迷惑やでホンマ!

第十四話 Reggae Band

私がDanceHall スタイルを布教し始めた80年代にはレゲエバンドというのは大阪で2,3つくらいしかなかったと記憶している。そもそも私自体が楽器には全く興味もなく、バンドをやりたいとも思ったことがなかったのであまりバンド意識してませんでした。これは小学校時代の音楽の授業のトラウマで鈴・カスタネット・トライアングルくらいまで何とかたのしく演奏できてたのですがハーモニカとリコーダーがでてきてからです私の楽器嫌いが始まったのは・・・。一生懸命家で練習してたのですが家族から大笑いされ、それが嫌で外でしたら近所からうるさいと言われとうとう「こんなもん人生で必要ないやろ」と その後は音楽の実技試験は受けてませんペーパー試験だけです。よって通信簿は王選手かGooseのみで中学3年の3学期にギターの実技試験は受けないと内申書に響くからと当時、担任でもあった音楽の先生に言われたのでギターはできないから歌で勘弁してと「あんたのバラード」を熱唱して義務教育9年間で初めて4を授かりました。オカンは親戚中に言い触らしてました。そんな具合ですからバンドと一緒にやらないかと懇願されてもいつも「DanceHallStyle」やからええわと断ってました。そんな私がジャメイカでRootsRadicsや809、Sagittarius Bandをみてから目からうろこでした。なかでもD.Fraserの男気に惚れました。演奏やないとこが私らしいとこですわ。勿論、演奏にも魅了されまくってました。「バンドって凄い!かっこエエ!」と感じて日本に帰ったものでした。そんな時、京都のイベントでRub A Dubの高橋君(I&I Vibration)から一緒にやろうと誘いがあってOKをだしたのですがバンドの連中はDanceHallStyleをまだ把握してない人ばかりで 「こうして、ああして」と私が指示してようやくDeeJayのバックを務めれるかたちをつくって出演しました。とにかく気持ちええとしか言いようがないくらい良かった。「Ease Off!!」 「Come again!」 勿論、演奏も皆さん上手でその掛け声通りに動いてくれてたので本当に酔いしれてました。そんな時に大阪のRootsRockersというバンドがひんぱんにレゲエイベントに出演し始めてて、ここにはキレイどころ2人がサックスを吹いてまして私はこのバンドのファンでもありました。まあ、ヴィジュアルもええし、演奏もうまいし大阪では一番売れてたバンドやったと思います。一緒にやろうと言いながら結局私がジャメイカに行くことが多かったのでかなわなかったのですが今思えば一回でもやっとくべきやったなあと後悔してます。その後 私もジャメイカへ、キレイどころ2人もアメリカへ嫁いで行ってしまいバンドも解散?したと思います。他にもメジャーデビューしていたKaja&Jammin’このバンドは「ありがたや!有難や!」でメジャーデビューしただけあって全国展開営業してたので我々のパーティーなどではブックすることはなかったと記憶してます。ただ、Kajaはソロで桃谷あたりや市内のBarなんかで活動してました。私は金曜日の夜「ザ・ハングマン4」を見るたびにこれはレゲエと呼んでええんか!?と悩んでました。また、有名どころではIZABA&ZoundSystem 第八話で書いた若井ぼんさんと一緒にレゲエ河内音頭をやってました。その後は不明ですが私はイベントで見たことも聞いたこともありません。これらのバンド以外にも我らが狩集画伯や宮井・大村君(寛平ちゃん)らが組んだスプトニックバンド(活動期間最短)などなどが私の知るところです。DeeJayは基本レコードで演るものでしたのであまり縁がなかったんですが決まれば本当に気持ちの良いものでした。ステージなんかの機会があればできたのでしょうがReggaeはまだまだ一般受けしてなかったしPAなんかで相当なお金もかかるらしいので当時のDanceHallStyleでは「Miss 縁」でした。

第十三話 おれの息子は火星人

以前、あんまのミラーマンとヤンキーというコンビを『Who Rules』編で紹介してたのですがこのコンビを初めて見た時の私は怒り心頭で「あんなヨゴレと二度と一緒に演りたくないし演らない」と周りに伝えました。その当時の私は本当に本チャンのレゲエを追求し、いつかこの大阪でDanceHallStyleを広めたい一心でいろんな努力をしていてとんがってた時期でしたから「あれはレゲエのオケにしょうもないことをのせてるヨゴレというレッテルを貼ってDeeJayやないから」と決めつけてました。狩集画伯も以前患ってた「包茎」のネタやしょうもないネタが満載でした。それに続けとあちこちから自称DeeJayがそれをマネて俄にそこらへんのBarなどで出没し、挙句の果てには我々のイベントなどにも現れて「マイクを貸せ、演らせろ」とまあ私も一方的にダメとは言わず試しにと思いマイクを渡したところで舞台慣れもしてないからウダウダと尻切れトンボのリリックス?を演ると「もうエエワ」とマイクを返してくるのです。そんななかでやっぱり練習をやっ
てる人やネタを考えて韻を踏んでやってる人たちはそれなりに私も任せられたので次のイベントなんかに誘ったりできました。でも、イベントで使ってもらえるアーティストとなると数がしれてるのでどうしてもミラーマンとヤンキーとが大阪では一緒になるのです。でも何回も聴いてるうちに人間慣れてしまい、おもしろくなってきてしまいました。特に狩集画伯にはリアル感があってのことか良くうけてましたな。そこで私はヤンキーにカバーでエエからちゃんと英語で歌ってくれ、そしてミラーマンにはメッセージをいれたリリックスを考えろと訓ロクをいれました。狭い大阪でいがみ合っても仕方がないしとにかく演者が数知れていたというのがひとつ、そして彼らには北を中心としたファンをもってたからでした。プロモーターからしたら集客が一番やからね。そんなこんなで接点ができてある日ヤンキーが彼の地元に招待してくれて京都の山崎あたりへ連れて行ってくれました。そこで川で泳いだり山の新鮮な空気を満喫してお互いに打ち解け私もレゲエへの想いを伝え「これからはDanceHallや!おまえらもJamaicaへ行って勉強してこい!」と熱心に説きました。よくよく考えてみるとミラーマンはとにかくYellowmanを意識して演っていたみたいでやはり彼もその当時のJamaicaを彼なりに取り入れていたんでしょうね。そいうたら顔も事故する前のYellowmanに似てたかも。私がいつも「あんま」と呼ぶのは彼が丸ふちの黒いサングラスをかけてたのでそう呼んでました。また、彼は重度の「どもり」で彼が発言する際、「こ・こ・こ・こ」とどもってる間に私が先に「これからも」かとわかるほどでした。そうしてやっと言葉が出た時は勢いで唾が顔にかかるので先にこちらからいっておかないと大変なことになるからです。でもマイクを持つとどもりが消えてすんなりと「皮かむり」が歌えるのです。なんと不思議な話です。相方のヤンキーも今でいうイケメンでしたが私がジャメイカ在住の間に病魔におかされジャメイカに一度も行かずあの世に逝ってしまいました。もう一度会いたかったのですが今となっては叶いません。

合掌

「皮かむり~皮かむり~俺の息子は火星人」