第十二話 JLPやないで!LJPや!!

時は昭和60年頃― 読売新聞の夕刊の社会面でジャメイカについてのコラムにおいてジャメイカ人はエエ加減でホームレスのおじさんみたいのような記事がありタイトルも「じゃ~まあ〜いいか!」これを書いた人はたぶんウケるやろみたいな感覚で書いたんだと思うがそこに噛み付いたヒマ人がおりました。もう半分ヤカラですわ。早速電話で新聞社に電話をかけ「いったいジャマイカ人をどう思ってんねん!?」というような感じで。「電話でなんやからちょっと事務所来い!」事務所やで!電話受けた人はいろいろと苦情受けてるやろけど事務所はまあ、いややろ。それでも会って謝罪したいという社会部の記者がそのいわれた事務所にきましたわ。この事務所こそがかの有名な日の出デザインです。場所は現在あとかたもございませんが地下鉄四つ橋駅の真上の古ぼけたビルの屋上です。ここの主こそ一筆書きで有名?な狩集画伯であった。先日 狩集画伯に一筆と違うと指摘したところ「そんなんやってないで。」といわれておもわず片目を落としてしまいました。おそらくこの十年で「進化」してきたんだろうと自分に納得させました。現在の画伯は多忙で夕刊などのちいさな社会記事など目をとおす暇がないと思いますが当時の若かりし時はその記者に言い寄りました。「こんなんあかんで!おたくジャマイカへ行ったことあるんか?ジャマイカ人の事知ってるんか!?」こんな具合ですわ。記者もどんな奴らが出てくるんやろと想定しながら来て着いたら古ぼけたビルやエレベーターもなくコツコツと階段をのぼりつめた
屋上の部屋からでてきたのは顔の大きな顔の濃い~男です。招き入れられた事務所はまあ整理のされてない汚い事務所で違う怖さが頭をよぎったことだろうと思いますわ。部屋の脇にはゴンタそうな兄ちゃんも座ってるし、とにかく謝罪の嵐です。そんなこんなの話で記者も慣れてきて「ジャマイカのことを世間の皆さんに知ってもらう為に何か我々のことを書きたい」と言い出した。「我々はLJPの者や その記事のせて今度のイベントの宣伝もしてくれ」 画伯がいうなり記者は面白いと一言返事で記事になることになったのである。えっJLP!?ちがいまっせ!LJPや。LOVE JAMAICA PEOPLEや!!

第十一話 FASHION

今回は前章のANSWERとしてお話したいと思います。おおまか当時のFASHIONやスタイルなどがわかってもらえたと思いますが大阪レゲエシーンでは本当にまだまだDANCEHALL STYLE がそんなにひろまってなかったのでいわゆる大阪ラスタが主流でなかなかRUDDYっぽい人は少数派であったが宝島レゲエブックやサウンドシステムなどの雑誌が発行されて急激に情報が入ってくるとレゲエはもちろんDANCEHALL STYLEに火がつき出した。そらあんた、皆がカンゴール被ってるというても大げさではないくらいいきましたわ、カンゴールは!!!ちょっとその前にTRAVEL FOXというスニーカーがよかったんですが物流の関係もあって行きはしませんでした。話はもどりますがカンゴールには鉛筆や靴、はたまた傘やタオルまである位のブランドになってしまいました。病気やなあ〜。まあ現在はしぼんでしまっているけど大きなお金が動いてんやろと思いますわ。ダンスホールが普及したと同時にクラブからドレッドや長髪が消えだし90年代前半は大阪のダンスホールのピークやったんだと思います。ただし、精神的にラスタの人はどんどん増えていったんやないかなあ。85年ころNSCの生徒であったTOKU-Pがドレッドをやっていたがそれはきれいなドレッドやったと思うがあれはたぶんエクステンションちゃうかなあ。あと和歌山から大阪のイベントによく顔をだしていた長髪の山崎(多分?)氏も根性入ってた。まあ現在50歳前後以上のラスタは根性入ってた人も多かった反面、勘違いなところもあり、その後の大阪レゲエシーンからは疎外していったのは事実だ。たぶんついてもいけないし、しいて追うこともせずに自分の世界にひたっておられることだろう。また、大阪ラスタの聖地はたぶん岸和田・貝塚あたりと私は当時から感じてる。あそこらのラスタは本当に濃い。おそらく現在もその流れは存在しているらしい。また、RUDDYのなかでも一般的にはジャメイカンスタイルに憧れるのが王道だったが当時アメリカのラップ・ヒップホップの影響でHIPHOP FASHIONをとりいれてたきた頃に京都からCURTIS FLY & SPICY FLY とういうコンビがうまれたのだが彼らのファッションは本当にイカつかった。当時のシャネルズのように黒塗りでなおかつビッグチェーンそして大きなグラスとゴーグル、思わず‘‘Back side!”とうなるほどでしたね。女性では現在のようなGalはほとんど80年代には全く存在しておらずどちらかというとRootsWomanが多かったな。やはりジャメイカに行ってやっと目覚めるパターンが男女にかかわらず多かったですわ。当時のOsakaRootsWomenのイメージはRudeというより知的で静かでちょっと汚いイメージが私にはありましたわ。ほんまに汚いのでなくイメージで。でもJさんは臭かったなあ。とにかく私の感覚ではOsakaGaLが発生したのは四ツ橋のSt.Annあたりやないかなあ。そのあとのLabrishにはたくさんのGalがおったです。その後アメリカ村がアメ村となっていくと同時にRootsWomenは消えていってしまいました。

第十話 Rasta & Rudy

大阪に限らず80年代のジャパニーズレゲエシーンと云うのは「Roots」が主で一般的に認知されていたのはBob “King”MarleyかJimmy Cliffくらいで「ディスコ」が流行ってる中 UKのMusicianがこぞってReggaeRydimを使ったおかげでThirdWorld, Aswad, はたまたBlack Ufuluなんかがディスコでかかっていた。ただ、本質は「夏だ!レゲエだ!!」ぐらいでしたわ・・・・・。80年代中頃にそれまでのHipieStyle ReggaeからRudy Bwoy Styleへ「進化」したものがDanceHall Styleやと私は考えております。別に「進化」と云っても「良くなった」ではなく本当のReggaeをJamaicaで見てきたからであった。そう云う私もその中の一人である。今から思えばホンマに「古き良き時代」でした。みんなアホでした・・・・・。まずは「Rasta] 当時はHippieが多かったな~。インドかジャマイカみたいな感じでね~。ハーブ有り、「飛び道具」好き~とかドウンとへとかね~。本当に凄かった。レゲエパーティーやコンサートともなれば酔っ払いと兎の目をしたドレッドやシャキ軍団、ヘたり野郎らの集いやったです。私が記憶してるなかで印象深いのは福島の「ダイナマイト」やな。 名前のとおり爆発やってたなぁ。バーチュルーム(トイレ)にいく通路で倒れている男女。へたっているものをかいくぐっていかないと辿り着けなかったClubでした。そんなシーンのなかで日本的ラスタマンの特徴を述べてみよう・・・・・・・・。まずはファッション。まぁラスタと云えば「ドレッド」 これは当時パーマ屋でしてくれる訳がなく、自分で手間暇かけてする人とHippieStyleのロン毛。しかもコム(くし)は入れない。着るものはダントツでバリかインドのスウェットパンツみたいなん。それにT-Shirts 裸足やぞうり系統で決まりでヤギひげがのびてるとムチャやばかったなぁ~。習性は主におとなしいけど理屈っぽい。生き方・考え方にこだわりをもっているだけにエグ~い人もおりました。Jamaicaへ行ってBaggaのところへ出向く者もおったりして濃い~人たちです。但し見てくれだけでDubとサイケでパロってるだけの人も多かったわ。そしてRuddyのファッションは主にKangolHutとRastabelt, Clarks Shoesできまりやな。革靴でなければNIKEや当時Run DMCの影響でadidasなんかでしたネ。今でこそスーパーでもNIKEなんか売ってるけど当時は自分でアメリカまで行って買ってこなあかん シロモノでした。とにかく最低でもソウルまで行って買い物しないと「Ruddy Fashion」はまったく出来ない時代でそれなりに苦労してました。カッコウがつけばそれから後はRiddimPosseやパーティ、コンサートにくりだしていましたがいかんせん狭い世界でどこへ行っても同じ顔ぶれです。まぁそれが現在(2k6)のレゲエシーンの素であって現在でも大なり小なり同じスタイルでもあると思います。次章では具体的な人名等だして話したいと思ってます。それでは~ Go So ~

第九話 Who Rules

昔、レゲエのビックイベントがなかった時代レゲエ者達は何とか自分達の「いこいの場」をプロデュースした。スペースマン中野やその仲間達がキープした「びわこJammin」。SやOが主催した各パーティーや神戸エリアの「須磨の風」等々が代表だ。そして、若い世代が手掛けた”Who Rules” これもやはりRiddimPosseがらみでしかも主催はまたまたキングストンのママことFuckin’Jun。ここで笑える人は通と呼べる。浪速ともあれ、Fuckin’Junが須磨で一軒家を借りきってやったイベントはある意味凄いモノだった。日本のレゲエシーン東京、大阪Linkイベントで大阪レゲエ者は東京のアーティストをパンダでも見る様な目で見ていた。(当時パンダは新鮮でとても珍しいものの象徴だった。)レゲエ自体認知度が低かったのでいたしかなかったのであるが、現在SoundMeetsやClash、Jamものが年中行われてる環境では考えれないが当時はそんな風であった。須磨海水浴場の西の端の民家(かなり大きな旧家の家)で浜辺にステージをつくって本当に良いセッティングだった・・・のだが、いかんせん客はほとんどジャンキーにちかいものが多く、常にトイレは長蛇の列で時間が経つにつれ、トイレのちかくで倒れとる者が増えていくのだ。それはたぶん“へ”の影響か若しくはガンジャ初心者であったろうと推測する。ヒッピー系やね。現在の若い人達には「ヒッピー」と云うてもピンとこないけど根強いでホンマ。レゲエはジャメイカ以外では本当にヒッピー系が広めた音楽だから仕方がないと思うがジャンキーは到底あかんわな。そんな客にもめげず、「皮かむり~ 皮かむり~」とあんまのミラーマンが叫べば横でワケわからん英語をまねた歌のヤンキーがSweetVoiceで場内をSwingさせた。まだ見ぬジャメイカを思う人達にとっても、ジャメイカを知る人達にとってもシチュエーションは120%であった。バビロンは述べ4回来て、「即時解散」を求めたが最終最後まで努めた。勿論主催のFuckin’Junも「Seen」の連発でステージの裏・表で大忙しであった。京都からはスパイシーM&カーティスフライが、東京からはSistren Honey-Bらが神戸レゲエ者を釘付けにした。だいたい神戸ではダンスホールスタイルはまだ浸透していなかったからとても新鮮かつビーチに泳ぎにきていた若者にはとても良いアピールにもなったと思う。たぶん、後かたづけは相当大変だったであろうと思うほど会場はもりあがり後にも先にもこれで終わってしまったのは残念だった。その後、Fuckin’Junは獣医になると勉強し、なぜか英語もやりたいとNYへ行ってしまいました。この頃のレゲエ者は私を含めて、ジャメイカンアーティストを生で見たり、色々とイベントを成功させていくのだがどうしても本当のジャメイカを知らないと云うジレンマに悩まされ、海外へ発っていくのであった。ちなみにこのイベントは私がジャメイカから帰ってきた年の夏だった。

第八話 若井 ぼん

若井 ぼん と聞いてあの出歯の漫才師とすぐにわかる人は30代後半の世代であると思う。その人達でも彼が日本人初のレゲエサンスプラッシュアーティストと知る人は非常に少ないと思う。当時、私もまだジャメイカには行ったこともなかったのでLIVE & DIRECT ではそれを知らない。が、MobeyのジャレットパークがTear Upしたことはすぐに想像できる。でも誰が予想したであろう「あの若井 ぼんがレゲエ!?」とそれまでの「若井 ぼん」を知る人達は疑った。でも「よう やりはった」の一言である。しかもリリックスは「レゲエ河内音頭」これは日本で12インチシングルとしてプレスされ私も所有していたが現在どこにいったかは不明だ。このレゲエ河内音頭と派手な着物をまとった ぼんさんが「えぇ~さあては~」とうなると会場がドォ~~~ッとなり、この日より一ヶ月位はそこらで話題になっていたと思う。たぶん例の「しっつれいしました」とツバキをとばして云うて帰りはったと想う。(言うてへん、言うてへん)。ジャメイカから帰ってきて先述のアイランドで会った際もかなり興奮ぎみだったので私達の想像を越えてたのに違いない。とにかく当時では我々レゲエ者にも新鮮やったし、リリックスもおもしろかった。現在でも一般の人達に受け入れられると感じられる名曲だ。その年の正月には松竹角座でサルの着ぐるみ着てサル回しをしてはったのにとそのギャップを感じていた私は「先、行かれた」と云う気持ちと「すごい!!」と云う畏敬の気持ちが混じった中で「こんなんもアリやねんなぁ」と内得していたのである。その後、ぼんさんは漫才からだんだんと離れ、ミュージカル等の今までになかった方面に進まれていったのである。その当時の松竹の漫才さんと云うイメージにはまってはったのであるが垢抜けたことをやり始め若いカワイらしい娘を連れてミナミで遊んではったのを何回か目撃したその後、芸能界のどのあたりをさまよっておられるか私は知らない。現在レゲエ河内音頭というと吉本興業の河内家菊水丸と相場が決まっているがその前に若井 ぼんさんが大阪レゲエ史に足跡を残しはったことはトレビアの泉である。ヘェーヘェーヘェー。しっつれいしました!!yo so

第七話 LION MUSIC DEN

レゲエが好きでしょうがない人達でも日本でずっといればマニアックの世界へ突入してしまうが大阪レゲエ者はやはりホンチャンを求めてしまうのである。80年代初めの頃ではほとんどジャメイカのこと等、誰も知らない時代にレゲエレコード専門店が大阪ミナミでできた。それまでは輸入レコード店でさがしあてるか、海外で購入するくらいしか、レゲエのレコードが買えないのであったから「儲かるんか?」と首をかしげる程のマーケットだった。場所は東心斎橋。現在CUSS CUSSと云うRootsなGoods屋さんになっている。その当時はこ汚い雑居ビルでその3Fに[LION MUSIC DEN]はオープンした。私はまだ学生でそんなに頻繁にレコードを買うことはなかったが月1、2度新譜!?をチェックしに足を運んだ。おそらく大阪レゲエ者は全員ここへ出入りしていたし地方からもレコード漁りに来ていた。と云うのも当時LPアルバムはもとより7インチがおいてあるのはここだけだったが、ただ選曲はもうひとつだったとジャマイカに行った時に感じた。ともあれ[LION]と大阪レゲエ者に愛されたレコードショップだったがとにかく休業日でないのに長時間ドアが閉まっていたり、今では考えられないほどの[Yardy Style]だった。この店の近くに[LPコーナー]と云う輸入盤屋さんが有りUK盤を中心にレゲエコーナーが設けてあった。私は地下鉄心斎橋駅で降りてこの店寄ってから[LION]に向かうのであった。[LION]の店内はいつもインセンがたかれていて、長時間店内にいるのは苦であったが、中毒者であった私はいまだ知らないジャメイカを感じれる数少ない場所であった。オ-ナ-の○○さんはお世辞にも愛想がなかったと当時は思っていたのだがその後、オキノが勤めてからレゲエブームにものり店も全国3店舗。通販にも精をだして順風満帆にレゲエ布教に一役を買っていたのである。私が通っていた当時では店内で他の客と会う事がごく希れと云う時から考えられなかった。ところで北は梅田にもレゲエを扱うレコードショップが有り、ここも[LION]ほどほどでとはいわないがレゲエ布教をになった店だ。オーナーの新井さんはあのピリピリ(後に詳しく話有)とも親交深く大阪レゲエ者で知らない者はいない。この両店が80年代より大阪レゲエ者をしたえたと云っても過言ではなかった。「なかった」と云うのは21世紀の今、これらのレコードショップは存在しない。なんでクローズした理由は知らないが、その分他にたくさんできたのは事実である。[LION]はセレクターオキノを迎え入れ、本当に繁盛していたと思う。その頃、私はジャメイカ在住していてリアルタイムでは知らなかったがウワサを聞くたびに店が増えていっていた。それぞれの世代に色んな思い出が[LION]にあったと思うが、客の○○さんに対する印象は皆同じでそう思うと[LION]がYardyStyleでレコードを売っていたころが花だったんじゃないかなぁと私はつくづく想うのであった。

第六話 ジャメイカ(レゲエ)依存症

レゲエと云う音楽を知り、妙にハマってしまい 「いずれはジャメイカへ行こう」と一歩、足を踏み外したレゲエ者は多い。特に70年、80年代にハマった人はほとんど人生が変わったのではないでしょうか?。別にそれが悪いと云う意味ではなく、それもそれでおもろいなぁとつくづく思うのである。まず初期症状としてレゲエのバーやクラブに出入りし、レコードあさりにふけっていずれはセレクター・Dee-Jay・シンガーにと志をたてたらもうイッキにきてしまいます。前述している”Riddim Posse” のStudentやアイランドに出入りしていた者達、ヒッピー(死語やな)くずれなんかはそらもうすぐにジャメイカへ気持ちは飛んでその時に日々働くという生活になっていった。まだ当時は円高が始まったばかりで1ドル240円位の頃だ。1000ドル2000ドルがそう簡単につくれる時代でもなかったし、エアーフィーもまだまだ高かった。今の格安チケット料金なんて夢の様な価格だったのであった。初期症状が過ぎると情報に飢えだしてくる。と云うのもそろそろ金もたまり、気持ちはフロリダ半島あたりまでいってしまいその当時ではとても少なかったジャメイカの情報収集に日々費やしてゆきレゲエの催しに足すべく通ってしまい、心がウキウキする症状に悩まされるのである。もうこうなってしまうと中毒ですわ。高確率でジャメイカ渡航です。ここで渡航してしまうと特に女性の場合にキツ~イ症状が現れる事が間々ありますが。ここでキツ~イをあえて説明致しませんがキツイです。”Agony”。渡航したらしたでジャメイカンゴールドに酔う者、DanceHallにイカれる輩、ラスタに磨きがかかるJapanese Bobo 、Brinks Gal ( Women) 色んなカタチで症状がおき、リピーター(常習者)として幾度なく渡ジャメイカしてしまうのである。かく云う私も「ジャメイカ依存症」になった一人です。比較的軽めに中毒に陥った人でもレゲエクラブやバー入り浸り、自称セレクターやDee-Jayとなってしまうのである。おとろしや~。只、中毒になったからと云ってガンの様に死ぬことはないのである。こんなところはHerbと似ている。今この章を読んでいるあなたもたぶん、侵かされていると思うわ~。しかし、日本のレゲエ界が今日あるのは依存症の人達によって育まれたきたのは云うまでもない。So respect all of “Reggae Drunky”

第五話 Mini Bus from Osaka

最初のジャパンスプラッシュが東京で開催されることが決まり、大阪レゲエ者が色めきだった。それまで金が無い為に数少ないレゲエコンサートにも行けなかった者が「割安」とでも考えたのか1万円で何人もアーティストが見れるとあって、東京までどうやって行き、宿泊はどこで?と云う話が挨拶代わりになっていた程、大阪ではHOTなNewsだった。大阪市バスの運転手がRiddim PosseのStudentとしてマンガの話の様に存在していた。当時、かのJamdonでは G,Treeの「Mini Bus」が大流行。「ジャメイカ行った者」の中から「ミニバスで行こう!」と提案があり、即「ジャパンスプラッシュツアー」が募られたのだった。レンタカー屋からコースターをレンタルし総勢20人程が東京へ向かうことになったのだ。ツアーのメンバーはやはりと云うべきか、Riddim PosseのStudentでまことに濃いメンバーでした。その中心メンバーは勿論 Riddim PosseのオーナーであるSMやなく、S & O、“fi real“ Fuckin JUN、おじ、NSC研究生だったTOKU、キク、市バスの運転手、西成のタミちゃん、「花売り娘」スーちゃん等々、名前だけでも濃いREGGAE者の人たちで他にもいたが私の記憶の中から名前が引っ張りだせないのが残念だ。とにかくミニバスに乗り込んだ異様とも云える一行はいざ、東京へと向かったのである。クソ暑い夏に毛糸のタムをかぶる者、ドレッドの者、ほとんどのメンバーがウサギの様な目を隠す為に黒いサングラスをつけていた。道中はやはりガンガンにJBCのテープやダンスホールミュージックを鳴らし東名高速を東にひたすら走ったが距離が距離だけにそのうち爆睡する者もいた。そうして約9時間程かけて東京に着いた一行は後楽園パ-ク野外ステージを探し会場に入りした。バスの中でヨレヨレになっていてもいざ会場に入ると皆テンションが上がり始め、またもやウサギ目になったのであった。まだその日の私の事にふれてなかったが、やはり他のメンバー同様でテンションがあがりっぱなしでまだ見ぬジャメイカへの想いをどんどんふくらましていたのだった。因みにこのツアーを境に私の「ジャメイカ依存症」が知らぬ間に深まり、仕事さえ失うのであった。高速バスや新幹線、はたまた飛行機で続々と全国のレゲエ者が集まりこのShow は始まった。いつものごとくスラックスにTシャツと云うバビロンがそこらじゅうにはべっていてジャンキーをLockしていくのであるが、大阪レゲエ者はいつもHold Tightである為、Showをエンジョイできた。このShowで目立ったのは当時社会現象にもなった「ブラさがり族」というアメリカ兵にフックしてるギャルが多いことに私は「やっぱり、東京やな」とひしひしと感じさせられたのと終戦期はまだまだ終わっていないなぁと全くレゲエに関係なく寂しい気持ちになったのは今でも脳裏に焼き付いている。そんなこんなでShowも終わり東京唯一のクラブ「Bubblin Dub」へ皆は繰りだして行き、我々は東京の夜をエンジョイして、またまたバスに揺られて大阪へ戻るのであった。 JAH LOVE

第四話 大阪レゲエ ”Yard (ジャマイカ)Styleの夜 “

80年代前半の大阪で云わゆる「レゲエのお店」と思われる店は無く堺のリズバーンがそのレッテルが貼られている頃に、先に記したUniver-cityこと「Rydim Posse」が東区(天満)にオープンした。その当時「レゲエ者」の代表はラスタ。ジャメイカではDanceHall全盛の頃で日本ではインドっぽいラスタがレゲエルーツでユラ ユラ してた時にバンブーウォールで床はモルタル、金網とズィンクで作られたブ-スの中でセレクターが7インチを回し、Dee-Jayが「Yeah Man」とウナる。~Yardyやね。店に来るほとんどがジャメイカに行ったことも無い人達なのだが何か知らないがその雰囲気をかもしだしていたと思う。Ridim Posseができて全国のレゲエ者もここへ集う様にもなった、京都では[ Rub a Dub ]がすでにオ-プンしていたがダンスホール(キャパはないが)スタイルとしてはRidim Posseが唯一だったといえ、初代Dee-JayのあのMr.Ghettoさんもイケイケで訳のわからんことを必死で演っておりました。そんな折、バヴルの申し子「DCブランド」のスポンサーが W.SmithやS.Minott、H.Andyらを呼んだのだ。その流れでア-ティストがRiddim Posseに寄るとのことで 店内はもうスシ詰め(と云うのも狭い)。遅々でようやく着いたとたん Mash Up !! あの時のショックは私が始めてジャメイカで見たブラックスコーピオの時と同じぐらいやったなぁ。「コレや!これがジャメイカスタイルや!」そう感じたレゲエ者は多かったと思う。店中がはじけてようやくクスぶった頃、S.Minot, H.Andyらと我々はとなりの公園のベンチにすわり、月あかりの中でBone Weed !! お互いの国やレゲエシーンを語り合ったと云うよりしょうもない質問と「ジャメイカン ゴールド」の自慢ばっかりやったが、そこにいた大阪Rude Boysらにとってそのショックはその後、「Gone Jamaica」ブームでみるように「見るより聞くより行くのが一番」と皆がこぞってジャメイカへ渡ったことでうかがえる。だがそれよりも前に迷セレクターこと“Drunky 狩集 ”やカンペイ(こと大村君aka Hidoshi) そして現在”CUSS CUSS”のオーナーのとっちゃんの兄のかっちゃんらがそうであった。彼らが見たジャメイカとアイランドのS(Mかも?)らが体験した話が唯一の情報源でもあり、彼らとの話もより盛り上がった。その際あのジュンもDee-Jayデビューするのであったが自分で付けた名前が”Fuckin JUN”そのまんまやがな。トホホ~。今ではキングストンで母としてまたサウンドボーイの姉としてがんばってるらしい。私にとって彼女は本当に○○○○○ジュンです。その夜を境に大阪レゲエシーンがより熱くなってきたのは云うまでもない、本当に今でも目に浮かぶ夜だった。Murderer !!!

2K3 (2003年時) 特別話 “Think about”

衆議院選挙も自民党(Labour Party)がまたもや勝ち国民はどんどんしいたげられていってると誰しもが思う今日、此の頃、呑天気に生きてる場合ではないのとちゃうやろか!? 今テレビや新聞等でよく取りあげられている「年金」の問題はもとより、よう見たらほんまに国民の為の決まりや生活を全く考えられていない法規を押し通してるのである。わかるか?俺らは「北朝鮮」や「イラク」 のことを引き合いに出しているけど、この国もええ加減やばいでホンマ。今の20代より先の皆が60歳になった頃はこのままいけば正味エグイで。「変えなあかんでぇ」Revolution!! 毎年クリスマスや正月がやってきて人々は生活の慣習として祝うのやけど昔から考えてみるとだいぶん簡素になってきていると思うわ。「祝えない人々」も確実に増えてると思う。人生エエことも悪いこともあるから生きれる訳やけど悪いことだらけでおかしくなるのは人の情で、云わゆる「せちがいな世」となり「物騒な世」となるのである。最近も「刀剣○の会」などと云う、そこそこ地位のある人達がテロリズムに走ると云ったようにノーマークに人達が主犯となる凶悪事件が多くなっている。これはマジで世の中おかしくなってきているのである。もうこれ以上と云うよりもう自民党が政権をキープすることをやめて欲しい。それ位この先国民はドツボにはめられるのが目にみえてきている。改規や改憲で自分のブレーンに金儲けをさせ政権を維持しようとしているのはミエミエで、そんな事しか考えていない閣僚だらけのこの国のいく道は国民にとって地獄に行くことになるのである。皆さん目をあけてこの日本の進む道を見極めてストッパーになれる様、がんばりましょう。またこれからも「百物語」を楽しみにしていてください。

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