第三十六話 St.Ann セントアン

大阪ミナミのアメリカ村といえば現在は「若者の街」として全国から観光客まできてる場所だが80年初頭は小学校があり、表具・欄間屋さんがぽつぽつあるぐらいで寂びれた感ただようところで数件のアメリカ雑貨や古着のお店、無くなってしまったがラハイナというサーフショップなんかが点在していてあまりまとまり感がないところであった。特に阪神高速の入り口より西はアメリカ村に属してるかは微妙だがマイウエイやパームスなんかがあったから四ツ橋筋までを含めるのだろうと思うが殺風景とした場所であったのはいうまでもなかった。反社の事務所やソープ街まであったから特に昼間はそんなに人通りがあるとこではなかった。

そんなとこだからミナミといっても家賃が安くて小さな雑居ビルにお店や事務所を構える若い人達が集まり80年代中頃には現在のアメリカ村のベースが出来上がっていたと思う。かの画伯も先述してるとおり事務所を開いていた。ただ、ここにはレゲエ者が集まる場所は当時アイランドの事務所くらいでレゲエバーやClubなんかがなぜか皆無だったのである。甲賀流のたこ焼き屋はできたけど・・・。

しかし右肩上がりでアメリカ村が発展していく途上で端の端にはなるが四ツ橋筋沿いの地下にレゲエClubがオープンしたのである。あのKAJAの元マネージャーKがスポンサーをつけてオープンさせるみたいな話で画伯が運営をまかせてもらえるみたいな話を当時NYにいた私に連絡があった。

帰ってきて一緒にしないかとの打診もあったがようやくNY生活になじんできた私にとってなんの魅力も感じなかったのとまたキツネに化かされて今の環境を失うのは辛いと思い断った。ただ、箱に呼ぶ演者なんかの手配が必要ならいつでも相談してくれと伝えておいた。

そうして大阪ミナミに初のレゲエClubがオープンしDanceHallスタイル発信の場としてその後のレゲエDanceHallブームの先駆けとなっていくのであった。

とは言ってもオープン当初はまだまだレゲエDanceHallが浸透されてない事もありそんなに盛り上がってなかったとも聞いている、またキタのDynamiteのように外タレを使った大きなイベントもキャパの関係もあり打ててなかったのもあるだろう。そうして運営をまかされていた画伯達もクビになり運営はK兄弟が三ちゃん営業でしのいでいたようだ。まあ画伯達の器量で動かしてみたが大した事もなくこれなら兄弟で回していけると判断したんだと思いますわ。実際客入れてナンボの世界やから客呼べないならイラン!そのかわりどんな曲かけてどんな事したらエエのかがわかればなんとかできるからね。場所もミナミやし。

その後私も帰国した際に何度かイベントに出させてもらいましたがDynamiteの時のような感動は正直なかったです。ただ、アメ村にできたレゲエClubとして大きな期待は寄せてました。やはり大阪の若者の文化はミナミからという何か知らん気概が私にはあったのでしょう。

この帰国中に私はSt.Annにおいて事件を起こしてしまいそこからDeeJay活動を止めてまたジャメイカへともどるのでした。またKはその後St.Annを閉め、関空のおひざ元でキャパもしっかりした半分屋外のJugglinCityというClubをオープンさせ泉州地区初の大型Clubということもありその盛況ぶりは凄かったみたいだ。その後はまたアメ村にもどりジョグリン・シティ、ItoIというお洒落な大型Clubをオープンさせたのであった。Kの一連のClub運営は90年代から2000年代に至るまで大阪レゲエの代表そのものやったと思います。ただ、ItoI閉店後は全く大阪レゲエ界から姿を消してしまった。

フィギュアスケートにでもいったのかなあ~

投稿者: 大阪レゲエ百物語

DADDY-TERUKIの大阪レゲエ百物語

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