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第三十五話 湿った導火線のDynamite

大阪初の大型ClubがJR福島駅近くの高架下にオープンした。それまでのDISCOとは全く違ったコンセプトでつくられていたので内装は華やかというよりは工場風のどちらかというと殺風景なイメージがありました。

私がそこへ行ったのはジャメイカ・NYでの長期滞在後であったのでオープン後数か月経った頃だったと記憶している。その頃の私はDeeJay業からはだいぶんと離れていて大阪のレゲエシーンの話は聞いてはいたがピンとはきていなかった。世の中はバブルでその余波がレゲエシーンにも波及しつつあり、一流企業の資本がこのClubをオープンさせていた。当時私はNYマンハッタンで日本のバブルを感じていた。

というのもジャメイカからNY経由で日本へ帰る際、JFK空港でロストバゲージに遭いました。初春のまだまだ寒いNYにTシャツ一丁で降り立ったのです。しかも日本へのチケットと多少のお金もなくなった荷物の中、もう最悪でした。まあすぐにでてくるやろと安易に考えてたのですが2~3日しても出てこない。たまたまあのカオルちゃんが仕事の関係でNY在住してたのと彼氏であったMartineが世話してくれたので何とかおれたのですがなくなった荷物の大半は7インチのレコード。これらを日本で売ってまた渡ジャメイカの渡航費にあてようと目論んでいたのがパー。すぐに親に連絡でもしてとりあえず送金してもらう手もあったのですがこれも運命と腹をくくりNYで働くことにしました。勤め先がグリーンカードを申請してやるから長期で勤めてくれということと毛嫌いしていたNY生活もまんざらではないと感じそのまま謳歌してしまいました。

その頃のマンハッタンでは日本企業の進出と名だたるビルの買収や設立でジャパンマネーが飛び交っておりました。またそれに続き日本人観光客・芸能人やらと凄い勢いでマンハッタンに日本がはいってきてたのを感じてました。まあそのおかげもあり私の働いていたジャパニーズレストランも繁盛していたのです。

そうしているうちお金も溜まり別にグリーンカードにも興味がなかったのでジャメイカへ行きそこから日本へ帰ることになったので長期間大阪レゲエシーンから離れていたのです。

長期に渡って日本の社会から離れていたせいもあってすぐに何をしようともなくくすぶっておりましたらあの「ヒドシ2号」から連絡があり「ClubDynamite」でDeeJayをしないか。ということでした。

私は他の人からも聞いてはいたのですが「ヒドシ2号」は学校の先生になるといってジャメイカを後にしていたのにまたなんで?と疑問に思っていたので尋ねてみると やっぱり多分に漏れず「中毒」になってたのです。

これは私もそうでしたが特に一発目はキツい! 彼の場合も先生になる為にと思って帰国したはずなんですが

HipHop改めレゲエDeeJayを始めてこれがウケるウケる。これで型にはまってしまいました。天国のお父さんも草葉の陰で泣いてますわ。彼の人生も180度変わってしまいました。

くすぶりの私にとっては「渡りの船」で週末にDynamaiteで爆発したろ!となったわけです。

週末、そうして久しぶりに会う大阪レゲエ者達と話しつくせないほどの話をしたりして導火線にも火が付き二人は思う存分本チャンStyleのDeeJayを演りました。 いわずともMash Upですわ。

久々に観る人、初めて観る人それぞれが感激してくれたと思います。

やりきった感満開でDynamiteの事務所へ2人でギャラの受け取りにいくとペラペラの茶封筒一つを渡され

「2人で分けて」 と。 私の目の前には人間でなくタヌキがいてました。

その帰り「ヒドシ2号」が 「ワシはええから」と茶封筒をくれましたが 私は「もう二度とせんわ」と答えこんなにレゲエシーンが熱くなったのにDeeJayの環境は以前と変わらないのかと自問しながらこの夜熱かった体が冷めていくのを感じながら帰ったのを今でも覚えている。

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投稿者: 大阪レゲエ百物語

DADDY-TERUKIの大阪レゲエ百物語

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